Date: Thu, 9 Oct 2003 

こだま通信 第9号

 みなさまこんにちは。天候不順で野菜や米が不作との懸念があります。今回からは東京大空襲のお話をさせていただきます。といっても私が大空襲を覚えているわけではなく、戦後の焼け跡・下町の状況を見たまま聞いたままをつづっていきたいと思います。イラクでは戦争で家々が破壊され悲惨な状況が続いていますが、そんな状況も重ねながらお話させてください。

昭和20年3月10日、東京下町を中心に大空襲がありました。私が生まれたのはその2年前の9月でしたので、まだ物心ついていないころでした。私は東京都足立区小谷田の生まれですが、日立の軍需工場がすぐそばにあり、あぶないということで世田谷の経堂というところに母親や祖母と一緒に住んでいました。日立ではそのころ戦車を作っていたとのことです。私の家族は戦後、小谷田の近くの亀有に住み、私が小学校に上がる前に江東区深川森下町に引越しをしました。亀有には今も同い年のいとこが住んでいます。このころの記憶は断片的ですがいろいろと思い出すことができます。

小学校に入学したのは昭和25年4月でした。家は木造平屋で木の香新しい家でした。引越しはその前年の夏でしたが、葛飾区亀有のアパート「福寿荘」からオート3輪に家財道具を積み、荷台に母と父と私の3人が乗り込み新居に向かったことを覚えています。父はいろいろと商売がえをした人で、当時はピーナツを透明なセロファン紙に詰めて問屋に下ろしていたようです。引越しをしてすぐに部屋の真中に長いテーブルを置き、仕入れてきたピーナツを山のように積むと、それを大人が手分けして袋に詰めていくのです。詰め終わると金縁のある丸い紙のシールを貼り、こぼれないようにします。そして用意してあった石油缶に詰めると自転車の荷台にのせて問屋に納めるのです。

家の周囲はまだ焼け跡でした。家の柱が崩れ、かわら屋根がそのまま地面の上にありました。復興は遅々としており、表どうりの路面電車も鉄骨だけのものが時々走っていました。公園には空襲で犠牲になった人たちの骨が埋めてありました。しかし人々は活気に満ち溢れていてそれは子供心にも感じていました。家の再建は徐々にでしたが木材が出回り、くぎやかわらも生産が上がり、街は息ぶきを取り戻していたのでしょう。我が家の北はす向かいは「石野」という仕立て洋服店で、道路を挟んだ前の家は「加藤」という活字屋が立ちました。小学校に上がる年の2月には妹が生まれ、家族は祖母を含めて5人になっていました。

父が森下に家を建てたのはすこしいきさつがあります。父のいとこにあたる人が同じ町に住んでおり、祖母の力添えもありその方の土地を借りて家を建てたのでした。祖母はしっかりした人で、我が家はこの祖母には大変世話になっています。私が生まれてからずっといっしょで、戦争のための疎開ではタンスを背負って省線(今のJR)に乗り込み、大奮闘で戦火を潜り抜けてきた人でした。祖父は戦後まもなく病気で亡くなりましたが、祖母は84才まで生き抜きました。この祖母の口利きで我が家を手にいれたのですが。このいとこの方に関して不思議な後日談がありますので、後半でまとめて話すことにします。 → 第9号番外編

 時は昭和25年4月、いよいよ入学の時を迎えました。次回は私の入学した深川小学校とそこに住む被災者のお話をします。

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