Tue, 7 Oct 2003 

こだま通信 No.10

皆様、急に寒くなりました。11月の気温だとか。お風邪を召さないようお気をつけください。国会解散・総選挙も間近との報道があります。しっかりと目を開いて投票する人を考えたいと思います。今回もこだま通信No11をお送りします。

私が育った町深川:3月10日東京大空襲の焼け跡をたどる 
part2 森下町2丁目

 私の父は大正5年生まれの辰年である。辰年の人は天にも上る勢いがあり、運気が常に付きまとって成功のチャンスをうかがう人生があると言われている。しかし父の戦後はあまり恵まれたものではなく、復員後の混乱期には浅草や上野で屋台を引いての食べ物商売で一家を支えた。私の母も手伝わなければいけない立場であったが、幼子(私)を抱えて外に立つわけにもいかず、母方の叔母Tがまだ独身であったのでしばらくは手伝っていただいていた。私の下に妹と弟ができ親子5人になったのは、昭和24年に東京の深川・森下町に新居を構えてからであった。

深川・森下町は今では都営地下鉄の森下駅と地下鉄東西線の門前仲町駅に南北を挟まれ、西は隅田川、東は三つ目通りに挟まれた地域である。私たちが引越しした当時は、北は総武線の両国駅から南は東京湾の月島にいたる電車通りがあり、路面電車が走っていた。私たちは「チンチン電車」の愛称で呼び、大きくなったらお金を払って乗るのが夢であった。相撲で有名な国技館はまだ進駐軍に接収されたままであり、隅田川を挟んだ反対側の蔵前に相撲の興業場所を持っていた。森下の家の周りにはぽつぽつと家が立ち並びつつあったが、びっしりと立て込むようになったのは私が小学校3〜4年のころであったと思う。

深川の地名の起こりは、慶長年間、摂津(現在の大阪府北西部から兵庫県南東部を占めていた旧国)から来た深川八朗右衛門が当時湿地帯だったこの地域の開拓に力を尽くした際、江戸幕府の祖・徳川家康が彼の実績を賛えて
その名字から名づけたものといわれている。また森下の由来は町の西のほうにあった庄内藩主・酒井左衛門尉家の下屋敷に深い森があったことから来たと言われている。つまり当時より海面に近く、掘割に区切られた街の周囲は堤防に囲まれ、隅田川に接した河川はかならず満潮に備えた水門が設けられていた。私の記憶では東に菊川町、南に白河町、電車通りの先は清澄町と水に関係のある地名が多かったと思う。また橋の多い町でもあった。

引越しをした当時、家の周囲は火事で焼け落ちたかわら屋根を無残にさらした焼け跡が累々と残っていました。昭和20年3月10日の東京大空襲で焼き払われた家々は数限りなく、多くの人々が犠牲になりました。幸い命を取り留めた人々も焼け出されたままで住む家は無く、家族のある人々は町内の深川小学校の校舎や講堂に肩を寄せ合って暮らしていました。深川小学校は美人画の伊藤深水画伯(1898−1972年)にゆかりがあると聞いています。深川の西森下町(現在の森下1丁目)に生まれ、深川小学校に学びました。小学校卒業後は夜学に学び、その後日本画の世界に入りました。画伯のお嬢さんが俳優の浅丘雪路さんで、その旦那さんが俳優長門裕之の弟津川雅彦さんです。

深川小学校は都心の小学校らしく、鉄筋コンクリート作りで3階建てのコの字型の建物でした。教室に使っていたのはコの字の|の部分で日当りは良く、━の部分は下が講堂で反対側は空き教室になっていました。すべての窓はガラスが破れ、障子紙が張ってあったと記憶しています。また床はフローリングの板が焼け落ちており、ごつごつとしたコンクリートの地肌のため、勉強机はゴトゴトと安定していませんでした。私が小学校に入学したてのころ、興味本位にその空き校舎にもぐりこみ(本当は先生から禁止されていた)いくつもある空き教室の廊下をおそるおそる歩いているときでした。ある広い教室の中で私と同い年ぐらいの少年がぽつんとござの上に座っていたのです。その子の前にはりんご箱が置いてあり、その箱の上には白木の位牌が立ててありました。ちょうど夏のころでしたが焼け残ったコンクリートの校舎の中はひんやりとしていて、毛布で覆った窓からは一条の光が部屋の中に差し込んでいました。その光は少年の横顔を照らし、何か怒っているような表情に愕いた私はあわててその場を逃げ出しました。きっとその少年は空襲で家を失い、家族の誰かをも失ったのでしょう。その孤独な空間に侵入した私をなにか得体のしれない敵だと認識したのではないでしょうか。私の記憶のスタンプはそのまま消えないで今日に至っています。


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