Date: Fri, 14 Nov 2003
こだま通信第11号
11月になりました。木々の葉っぱが道路に舞い、庭や公園のお掃除が大変な時期になりました。やっと気温も下がり暮らしやすいなーと思う間も無く、冬支度が始まっています。みなさまにはいかがお暮らしでしょうか。先日お会いしたこの通信の読者T氏より「こだま通信を楽しみにしています」と言っていただきました。先回に引き続き戦争の爪あと、空襲にちなんだ想い出話をさせていただきます。
B29と空襲と悪夢と
私が中学生のころ、ある夢を見てうなされることがあった。それは家の中で、障子の外がオレンジ色に染まりはげしくゆれている夢である。夢の中でその場所を思い出そうと試みるのだが、まったく思い出せないのである。そして苦しくなって目をさますのであるが、そのような夢を見るときは決まって下履きの中に射精をしており、恥ずかしく、そのことは親にも言わず、原因を考えることもできなかったがいつしか忘れてしまった。しかし父が亡くなり、母が父の想い出を語る中で、私の幼い頃のことを聞く機会があった。
戦争中、東京世田谷の経堂にいたころ軍需省がそばにあり、米軍の爆撃機B29が東京を盛んに空爆をはじめたある時期、軍需省の高射砲隊の砲弾にあたったB29が墜落した事件があった。米軍は焼夷弾をはげしく投下し、民家をなめ尽くして焼失させる作戦であったため、多くの人々が家を失い焼け死んだ。そのころ私はまだ祖母の背中に背負われ、母が身の回りのものを抱えて逃げ惑っていたそうだ。その話と私の記憶がはじめて一致したのであった。オレンジ色の炎は紅蓮の火となり、多くの尊い人命を奪ったのだが、私もまかり間違えば今の世に存在しなかったのである。私は長男であり、父は出征していたので母と祖母は必死で私を守ったのである。
「空襲警報発令!空襲警報発令」が私の最初に覚えた言葉であったそうだ。もちろん私の記憶にはない。祖母の想い出話はそのことと、「いざり」の話である。戦後、しばらく私たち親子は経堂から千葉の船橋に移り住んだ時期があった。伯父の別荘が海岸沿いにあり、伯母を含め、女ばかりの所帯であったそうだ。米軍が進駐し女はあぶない、というので千葉の田舎にひっこんだと聞かされている。私は生まれたとき未熟児で、仮死状態であったそうだ。そのためか歩くのが遅く、おむつをしたまま部屋といわず庭といわず両足をオールのように漕いで動き回っていたのだそうだ。飯田橋の伯母はそのような私のことを死ぬまで覚えていて「伸ちゃんはいざりで大変心配した」とおっしゃっていたことを思い出す。
ここに一冊の本がある。戦略「東京大空爆」著者はE・バートレット・カー。大谷勲氏の翻訳である。原著名はFLAMES OVER TOKYO。 その本によれば、B29は1943年6月に第1号機が完成し米軍に引き渡された。開発費は30億ドル。原子爆弾を開発したアメリカのマンハッタン計画が20億ドルであったことと比較すればその膨大さが窺い知れる。B29に与えられた仕様は、行動半径が2000マイル。高度三万フィート(9150メートル)、両主翼を合わせた翼長は43メートル、全長30.2メートルである。今は小型の部類であるが旅客機ボーイング727は翼長31メートル全長46.7メートルである。この高度は日本の誇るゼロ戦戦闘機を寄せ付けず、高射砲の届く距離ではなかった。
B29の機種にはトンボの目玉のように球状の合成樹脂硝子がはまっていた。先頭は爆撃手が1名、その後方に操縦士、副操縦士が1名ずつ、機関士、気象士、射手をまじえ総員11名である。トイレは1個、装備は機関銃を前後上下に備え、戦闘機の攻撃に備えた。しかし天候には勝てず、爆撃の成功を期すため低空で侵入することもたびたびであった。この本の中では、サイパン・グアムから飛来し写真を撮り、それに基づいて軍事目標を立て後日、目標を地図で確認しながら爆弾を落としていく様が克明に記されている。私たちの頭上から襲い掛かった焼夷弾はM69というタイプで、アメリカの砂漠で日本家屋を建て、その効果を十分試してから攻撃に備えて量産をしたと記されている。軍の指導部は爆撃を兵士に命じ戦果をあせる、爆撃手はゲームのように爆弾を正確に目標に落とすことに専念し、その命中率のみを競う。その下に多くの人命や家屋があることはきれいに忘れ去るのだそうだ。
今回はここまでとします。ではまた次回お邪魔します。
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