日高と天皇

第7回 天皇行幸と日高・飯能の少国民

 以上は公式・非公式を含めた史料である。 それはそれとして貴重な資料であるが、当時の国民はどのように思っていたのであろうか。生の声を記録したものはあるのであろうか。それがあるんです! 日高市史、新宿地区の開拓50年記念誌、ぼくの軍国少年期などが日高に埋もれていたのです。 (新宿地区の開拓50年記念誌での座談会の一部は前号でご紹介したので割愛する) ここで文庫館会員の木下應佑さんから事務局長の野村さんにに来たFAXをご紹介する。 (「日高と天皇」を興味ぶかく読みました。・・・昭和16年(国民学校4年生)、17年(同5年生)、八王子方面から蒸気機関車に牽かれた「お召し列車」が東飯能駅を通過し、高麗川駅に向かうのを、今の飯能市役所の反対側の線路近くで出迎え、見送った記憶があります。今の東飯能駅から高麗駅に向う西部秩父線(当時の吾野線)が、ぐっとカーブをして行く、その北側、そこから、今の聖望学園、当時の飯能実業学校(略称、飯実=ハンジツ)までの間は一望の畑でした。その畑の一部、八高線の線路近くを飯能第一国民学校(現在の飯能市立飯能第一小学校)が借りて、園芸実習地のようにしていたのですが、そこに並んで天皇の通過を迎え、最敬礼をしたのです。たしか赤田氏の本にそのときの生徒たちの生の声や発言が記録されていると思います。ぜひ調べてみてください。渡辺氏の連載が豊かになると思います・・・) 

野村氏より早速私宛に本が届けられました。以下は「ぼくの軍国少年期 赤田喜美男著」よりの引用です。

 『行幸の日が近づくと、沿道では、汽車から見える学校などの窓ガラスはきれいに修理されていった。犬はつないでおくようにいわれ、注意人物は予め拘束されたり、見張りが付いたといわれている。
沿道の町村では、記録によると、一と月前から「奉送迎」の準備が始まった。通過駅のプラットホームに入場出来る人は高等官や町村長が予め決めた偉い人で、警防団、婦人会、中等学校の生徒などは、沿道に整列する場所を指定された。われわれ小学生も五年生以上が、その光栄に浴することになった。行幸の前の日には、先生から行幸の意義とお迎えする時の心構えの説明があり、学校から一粁離れた指定の場所まで行って整列、幾度も最敬礼の練習をした。

 その日が来た。ご通過の一時間以上前から道路に整列した。北風の吹きまくる日だった。服装は、破れのあるのはいけない、つぎの当たっているものならよいとされた。子供心にも周囲の緊張感はよく分かった。日頃の悪童どもも口もきかないで、時間が過ぎていった。やがて、かすかに汽車の蒸気の音が聞こえてきた。まず、ビヵピヵに磨かれた真っ黒な機関車だけが滑るように通って行った。二、三人のあごひもをつけた将校が「天皇旗」を掲げていた。「先駆だ」と感じた。すると、先生の「最敬礼」という緊張しきった号令。しばらくして、「直れ」という時には、列車の音が迫っていた。頭だけその方向に回して目迎目送にうつる。シーンとしたなかを列車が進む。と、三両目あたりに大きな金の菊の紋章、その上の窓に、軍装の陛下が前方を向いて直立しておられるのが見えた。「あっ」と私は口の中で言った。夢のような現人神の渡御であった。ほんの数秒の出来事だったろう。列車の音がはるかになった頃、「休め」の号令がかかって行事は終った。

 帰りは、皆解放されてにぎやかだった。そして、口々に感想を言った。
「汽車が煙りを吐かねえで通ったぞ」
「ガタコンガタコンちゅう音が、ちっとも聞こえなかったな」
「天皇陛下は、ピカピカ光ってまぶしかったなあ」
「気を付けして立ってたけど、ずっとあれじゃあ陛下もたいへんだんべな。駅が過ぎりゃあ座るだんべな」
「ほかの車にゃ誰か乗ってたけども、陛下だけ立たせてあれは不忠な人たちだ」
翌日先生は、御召列車が使っているのは、無煙炭といって煙が出なくて火力が強い最上級の石炭なのだと解説された。すべてが特別なのだと、みんな納得した。

 それからひとしきり、天皇陛下のことがひそひそ話の種になった。
「天皇陛下は、いつもどんな口をきくだんべな、やっぱり、チンオモウニなんてむずかしい言葉で話すだんべえか」
「食いものは、どんなものを食うだんべえな、食うとすれば、便所へも行くだんべえか」
「生きてても半分ぐれえ神様だから、たまに行けば済むだんべえ」
「みんなが前へ出るとぺコぺコしたら、かえってつまんなかんべえな」
「一番偉えんだから、そんなことはなれてべえ」
とにかく、天皇は、神であると教えられていたが、子供なりに神と人間の中間的存在であるょうに認識した天皇像を持っていた。顔が龍顔、体が玉体、手が玉手、機嫌良いことを天機麗しくと言っていたから、どこか違ったものなのだろうと、この年齢の頃は感じていた。』

 日高町史の高麗小開校100周年記念誌によれば、『昭和17年3月27日(金)晴、天皇陛下 豊岡士官学校行幸、午前初等科奉迎、午後高等科奉送』と記されている。それより2日前、奉安殿工事開始さる、との記述を見る。時代は滅私奉公、鬼畜米英、粉骨砕身、聖慮深遠、教育勅語、軍人勅諭、などなど4文字熟語が氾濫闊歩していた。それだけではなく人命羽毛より軽しであった。しかし子供の柔らかい頭にはまだまだ矛盾を見ぬく力があったことを、赤田さんの本は教えてくれているように思う。
旧陸軍士官学校の記録をはじめ、復古調とも言える資料の刊行、「文芸春秋」、「諸君!、近刊では2月号(国難は、憲法を超える)」、をはじめ改憲の論調が多くなっていることは皆さんご承知であろうか。時の政府が経済の閉塞感と国民生活の窮乏の原因を外敵に求めるのは、古今東西歴史の証明するところである。 自衛隊の海外派兵の段階に至った今、軍備拡張・憲法9条を踏みにじる勢力の台頭がこれらシャーナリズムや出版物を踏み台にしていることは疑いが無い。このような政治・出版文化の攻勢の中で、民主的出版文化の果たす役割はきわめて大きいものがある。日高・飯能民主文庫がそのような出版文化を守り育てる一翼を担っていることを改めて実感している。

この稿参考図書(前回と重複分は省略)
 
〇ぼくの軍国少年期 赤田喜美男 まつやま書房 日高・飯能民主文庫蔵

〇昭和天皇実録 第八 平成28年9月30日発行 東京書籍
p675 陸軍飛行学校卒業式
昭和17年3月27日 金曜日 陸軍士官学校において卒業式挙行につき、午前8時50分ご出門になる。原宿駅を御発車、八王子駅を経て武蔵高萩駅に御着車になり、11時30分同校演習場(修武台飛行場)に着御される。崇仁親王とご対面になり、陸軍航空総監土肥原賢二・校長木下敏ほかに謁を賜う。ついで校長より演習の大要につき奏上を受けられた後、その説明により飛行演習を御覧になる。終わって、演習場より同校本部に向かわれる。着御後、校長より書類の奉呈を受けられる。
午後、大講堂に出御され、卒業優等生徒の講演をお聞きになり、ついで卒業生と若干名による剣術を御覧になる。終わって、屋外の卒業証書授与式場に臨御される。卒業証書並びに卒業優等生徒への賜品の授与あり。午後2時同校を発御され、4時30分還幸になる。

出典
侍従日誌、侍従職日誌、内舎人日誌、侍従武官日誌、省中日誌、供御日録、幸啓録、宮内省省報、官報、百武三郎日記、筧素彦日記、木戸紘一日記、東条内閣総理大臣機密記録、航空自衛隊入間基地所蔵資料、埼玉県庁所蔵資料。

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