日高と天皇 

第8回 シベリヤ抑留

 旧ソ連は第二次世界大戦後、「満州」などで武装解除された60数万人の旧日本軍将兵を、シベリアを中心とする地域(中央アジア、モンゴルを合む)に連行し、数年間にわたり強制労働させました。 これはポツダム宣言(9条 日本国軍隊は、完全に武装を解除された後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を与えられる。)にも、捕虜の扱いを定めた国際法にも違反したものです。 抑留者は、酷寒・飢餓・重労働の三重苦にさいなまれ、その1割にも及ぶ6万数千人の犠牲者が出ました。 敗戦後、南方の戦線より引き揚げる人、米軍に武装解除された内地の兵士達が故郷に帰る中、ソ連に抑留された人々はそのままとなり、大きな社会問題になりました。 今日、シベリヤ抑留者問題は大きく取り上げられることはありませんが、日高でも当事者が居られるのでこの「日高と天皇」でも取り上げてみました。

シベリア抑留問題とはなにか

 1945年8月14日、日本はポツダム宣言(7月24日、米英華三国宣言)受諾を連合軍に通告しました。 昭和天皇より発せられた詔書により戦争終結を日本国民に宣言しました。 すでに沖縄は6月には米軍に占領され、8月5日には広島に原爆投下また8月9日11時2分には長崎にも原爆が投下されました。 日本と旧ソ連の間には日ソ中立条約が結ばれていたが、8月8日、ソ連は日本に対し宣戦を布告、9日にはソ連と満州の国境をソ連軍の機甲部隊が突破し8月15日の戦争終結まで満州の関東軍との戦闘が続けられました。 ポツダム宣言を受諾することによって、日本は連合国との戦争を終結する国家意志を表明したのですが、その結果、戦闘行為は終結し、同年9月3日に、東京湾上に碇泊中の米国戦艦ミズーリ号艦上で日本の全権代表重光葵外相により降伏文書の調印が行われました。 そしてその日から日本の軍事占領が正式に発足し、その後昭和1952年4月28日、対日講話条約の発効とともに占領状態が終結し、日本は主権を回復しました。 

 中国・満州において終戦を迎えた日本軍は侵攻してきたソ連軍の武装解除を受け、その後捕虜となってソ連邦各地の収容所に送られましたが、極寒の地シベリヤに抑留されたもの数多く、抑留者は飢えと重労働・寒さに耐え切れず多くの人々が命を失いました。 ソ連の考えは「労働による国家賠償の支払いである」と抑留者を束ねた上官たちが兵士らに伝えたと言われる。 長い抑留からの解放・日本への帰還は国家事業として行われました。 1945年9月重光外相よりマッカーサー元帥に対してソ連引き上げを申し入れたことを皮切りに、紆余曲折を経て1946年11月に米ソ協定の成立を受けて25000名の送還が決定、同年12月8日引揚第一陣がソ連ナホトカより福井県の舞鶴へ大久丸・恵山丸、真岡より北海道函館へ大隈丸が入港する日を迎えました。 12月19日、日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定成立、毎月50000名ずつの送還が決まりました。 → 舞鶴引揚記念館

 当時の厚生省引き上げ援護局が中心となって日本赤十字社の協力のもとにソ連抑留者の引き取りと受け入れ事業を行いました。 敗戦後2年〜3年をかけて日本へ帰国できた人々は、それぞれの故郷へと喜びの帰還を果たしました。 しかし途中病気や怪我で命を失った人々の遺骨収集の事業も実施されたように戦争の傷跡はずっと後までも続いたのでした。 抑留者の中には国家賠償責任を求めて、あくまでも国による戦争を否定しつつ「国家賠償を個人に行わせた」政府の責任を問う声もあります。 (このシベリヤ抑留者に対する賃金未払い問題については以下の報道が参考になる→シベリヤ抑留者問題赤旗報道) しかし1948年の時点でも引き揚げは停滞、同年9月には東京日比谷で引き揚げ促進大会が開かれるなど緊迫する情勢も生まれました。 1950年にナホトカ引き揚げは終了(信濃丸)するがなお残留者問題が残っていました。ソ連側は戦犯など法に触れるものについて拒否、その後各種政治的取引を経て暫時引き揚げが継続しました。

以下の証言はこのシベリヤ抑留者が日高でも二桁の人々が存在し、日々さまざまな暮らしの中でこの政府に対する国家賠償責任を問い続けている人々を紹介します。 (ソ連抑留体験記より) 

シベリヤ抑留者の証言 (ソ連抑留体験記 埼抑協日高町支部編集発行より)

証言1 いのちあるかぎり 

 1945年1月に渡満、夫27歳、妻20歳。ハルピンを夫とともに発つ。 1945年8月、南に移動、8月15日終戦を知る。 8月19日、夫武装解除、シベリヤ抑留。 10月に出産予定であった。 ソ連兵の洗濯婦をしながら帰国を待つ。 子供の寝顔に励まされながら生きる。 1946年8月、帰国準備し移動。 逃亡生活の途中大勢の方が発狂、子供を手にかける姿に接す。 「子供と帰国」の一念で日本を目指す。 1947年6月30日、コロ島に着く。引き上げ船に乗船、途中嵐に遭い絶望に陥るが”生きて帰りたい”と心の中で故郷の氏神様に祈る。 無事九州博多港に着く。 途中広島を通過、原爆の惨禍を目撃する。 同年7月1日に品川、大宮を経由し坂戸に到着、義父・実父と再会する。 突然の帰国、それも母子二人の姿に父絶句す。 娘時代に取っていた美容師の資格を生かし、1947年11月23日高麗川駅に近い場所で開業、夫の便りを待つ。 シベリヤイルクーツクより夫の便り、返事を書くがその後の便りは途絶える。 しかし1950年夫帰国の報が役場よりある。 天にも昇る思いで神奈川県大船まで迎えに行く。 1953年家を新築、新生活をスタートさせる。しかし無理がたたり夫1965年12月25日に帰らぬ人となる、享年47歳。 長女20歳、長男15歳、次男13歳、父親が一番必要なときであった。 3年後念願の2階増築と同時に夫の墓を建てる。 日当りの良い部屋に仏壇を具える。天皇陛下より下された勲章と賞状を飾る。その後孫もでき、幸せに暮らす。今の日本があるのは大勢の人の犠牲の上に成り立っていることと思う。 (KM女)

証言2 ナホトカ経由武蔵高萩 

 武蔵高萩の飛行場の整備員。 米軍の空襲激しく、飛行訓錬が困難なため1945年3月下旬満州移動が決定。 同年4月15日に武蔵高萩駅を極秘で出発、若干19歳で家族にも内緒の任務であった。 初恋の人とも言葉を交わせなかった。 富山県高岡で一泊、伏木港で積み込み、北朝鮮の港で陸揚げ、4月25日満州吉樹到着す。 食糧は豊富、見るもの聞くものが初めてで目を奪われる。 しかし7月ソ連参戦で非常呼集されるがなす術もなく機材を空襲から守る地下倉庫に移動、命令急変し飛行機は移動したが機材は鉄路流失で足止めうろうろしている間にソ連軍により武装解除、捕虜となり終戦を知る。身の回りのもの大部分は没収、テント生活を送る。移動途中満州から引き上げる途中の婦女子に遭遇。また遺棄された子供らを目撃、戦争の傷跡の深さを現実のものとして知らされる。10月25日貨車によりシベリヤに向かう。途中、水も無く燃料も無く雪を集め枯れほだを集め飯盒でお湯を沸かし渇きをしのぐ。11月25日酷寒の中、ソホーズ(国営農場)へ収容される。森林伐採作業に従事す。1946年1月元旦を迎える。米の飯・さんまのおかず、ひさしぶりのご馳走を食べる。春は遅く夏は短い。日に日に痩せていく。栄養失調で入院するが退院後、第2シベリヤ鉄道の建設に従事、ラーゲルを移動する中、ダモイ(帰国)の知らせを受ける。3年の間零下十数度の世界を経験するが捕虜が建設した線路を走る列車に乗ってナホトカに向かう。先発の知り合いに家族への伝言を頼む。1948年6月20日朝、舞鶴に到着松の緑は今でも目に焼きついている。その時の嬉しさは言語に尽くし難い。武蔵高萩駅で弟の出迎えを受ける。父母の待つ田木の生家まで4キロの砂利道を歩きながら靴底に故郷の土の温もりを感じた。 (KK男)

証言3
 一丈もある昇り旗に送られた出征兵士、町長をはじめ各上司の方々より”銃後の事は心配するな、お国のために尽くしてきなさい”と励まされ、町民各位からは小旗を手に万歳万歳の声に送られ、父母、妻子に別れを告げ出征したのでした。 ・・あのような立派な挨拶により、3年も5年も無報酬にて国のために働いてきた兵士に対し、公式にご苦労様の挨拶を受けたかたがおりましようか。おそらくいないのではないでしょうか。 (IK男)

証言4
 1944年12月、中国天津(テンシン)の現役兵として入隊、4ヶ月の初年兵教育を受ける。 黄河流域の河南作戦に従軍中転属の命令により貨車輸送され満州国内に入国(8月10日)、そこでソ連参戦を知る。 南下する日本人婦女子を乗せた列車を目撃する。 8月15日、新京で終戦を知る。 ソ連軍による武装解除を受け、10月初旬にブカチャーチャ下車、収容所に入る。 人数3000人、17〜40歳が集められる。 仕事は石炭採掘で坑内作業、天井低く座して積みこみ作業を行う。 坑内は温かいが外は酷寒の地であった。 1日8時間労働で休日はあったが、飢えと寒さと病気で死者続出、休日には死体処理にあたった。 その数900体で収容者の3割が犠牲になった。 戦友の冥福を祈る。 (AK男)

証言5
 1941年1月10日、横須賀重砲連隊入隊。7月25日富士夏季演習中動員される。8月大阪港出航、8月上旬に中国大連港上陸、中支作戦に従軍する。 1945年6月に原隊復帰、8月15日終戦を迎える。 9月2日ソ連軍進駐武装解除はじまる。 しかし9月2日の夜脱出し戦闘を継続する。 11月18日、師団長の命令により交戦中止、投降し武装解除を受ける。 11月下旬、ソ連領に送られる。 「楽しい楽園だ」とだまされ続け、強制労働に従事する。隊長訓示は「仕事は日本国のため、日ソ戦の賠償である、兵士の労働力を提供するように」であった。 1948年6月2日、本土帰還。 6月5日に日高に着く。 (KT男)

この稿参考資料

ソ連抑留体験記 埼抑協飯高町支部編集発行 1984年2月1日発行 印刷岡野印刷所  日高市立図書館蔵

父の太平洋戦争従軍記 ←これは本になりました http://www.amazon.co.jp/ で検索可能

すいとんを食べながら戦争体験を語る会 (2004年9月16日(日) 日高市高麗の郷にて)より抜粋 「シベリヤ抑留を語る

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注1 コロ島=葫芦島。 第二次世界大戦後、の中国。東北地方からの日本人引き揚げ船の出発港。現在の遼寧省葫芦市。2006年6月25日、同市において引き揚げ60周年記念行事が開かれた。遼寧省政府と中国対外友好協会が共催。日本からは村山富市元首相のほか、戦後の引き揚げを体験した市民も参加した。午前中にシンポジウム、午後は平和公園予定地でくわ入れ式が行われた。宮崎市が日中友好都市関係を結んでいる。

関連HP=平和祈念展示資料館(引き揚げ船) 体感展示として、昭和21年、旧満州(中国東北部)のコロ島を出発し、博多港に入港した引揚船白龍丸の船内の様子を関係者の証言や当時の写真をもとに再現展示しています。幾多の労苦を乗り越えながらやっとの思いで日本の港に向かう引揚船に乗り込んだ方々の生活状況を再現しました。(同HPより)

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更新 2014/09/28