日高と天皇 第11回  大東亜共栄圏構想と戦前の日高の子供達

「大東亜共栄圈、八紘一宇を地球に広げる」と述べた西村真悟前防衛政務次官(第2次小淵内閣)の発言が問題になっています。西村氏は98年6月号の『正論』では、「軍隊とは天皇の軍隊であり、天皇という皇位を守ること」と述べているように自他ともに認める極端な右翼天皇主義者・軍国主義者です。その政治的立場は、民社党、新進党、自由党と経て、現在「日本再生通信」を発行するなど日本の「再軍備の旗振り役」を演じる政治家の一人です。

彼の少年時代の回想を氏のHPより再録する 『僕は、日本は昔太平洋の西半分とインドまでのアジアに版図をのばし。日清・日露と戦えば常に勝っていた強い国だったと聞かされて、驚き誇らしかったのを覚えている。この時の映画で、「明治天皇と日露大戦争」また「敵中横断三百里」があり、僕は胸をわくわくさせながら近所の映画館で見た。 翌日さっそく図画の時間に画用紙いっぱいに雪の原野に炸裂する砲弾とそこを突破する日本騎兵の絵を描いたのを覚えている。山本先生のもとで、僕はのびのびと絵が描けたのだ。昭和32年、小学校3年の時だ。  戦争の記録映画も多く上映されていたと思う。そこには特攻隊をはじめ日本兵の勇戦奮闘の姿が映し出されていた。「電撃作戦11号」という日本海軍の記録映画が印象に残っている。零戦、戦艦大和は子供たちの自慢で、模型屋に行っては軍艦を造り池に浮かべた。』 http://www.n-shingo.com/profile/index.html  この記述の前に西村氏は戦後の占領軍統治の時代、戦犯を処刑する米軍や基地周辺のオンリーと呼ばれる売春婦の居た体験を述べている。

 少年西村氏の心を捉えた「大東亜共栄圏、八紘一宇」とはそもそもどのようなものであったのか。 天皇制を推進したスローガンの柱である 「大東亜共栄圈」は、日本を盟主としてともに繁栄すべき東アジア(=東亜)の諸民族・諸国の意味です。「八紘一宇(はっこういちう)」は、全世界を天皇のもとに一つの家とするという意味で、「八紘」は四方と四隅つまり世界・天下のこと、「宇」は家のことです。 このことばは、神武(じんむ)天皇が、橿(かし)原宮で即位した際にのべたとされる『日本書紀』のことばをもとに、明治時代の学者がつくったものです。

 日本は一九三一年、「満蒙は我国の生命線である」をスローガンに中国東北地方への侵略を開始。三七年からは中国への全面的な侵略を展開しました(日中戦争)。 四〇年に発足した第二次近衛文麿内閣は、「基本国策要綱」で「皇国の国是は八紘一宇とする肇(ちょう)国の大精神に基(もとづ)き世界平和の確立を招来することを以(もっ)て根本」とするとうたい、「皇道の大精神に則(のっと)りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圈の確立をはかる」(松岡外相の談話=「翼賛政治の研究 59ページ」)ことをめざしました。

 「満蒙」への侵略に始まった侵略戦争を、伝説上の初代天皇神武の発した「八紘一宇」という「肇国の大精神」にもとづいて「大東亜共栄圈」確立のために拡大していく、というのがこのスローガンでした。 これをかかげて日本は、四一年からは東南アジア諸国への侵略をすすめ(太平洋戦争)、四五年に敗北、アジア太平洋諸国に犠牲者二千万人以上という史上最大の惨害をもたらしました。
それではこの大東亜共栄圏、八紘一宇の教育は日高の子供たちにどのような思いを持たせたのであろうか。 日高市立図書館に「高麗小学校開校100年史」がある。その中で高二女の書く「私の希望」と題する一文があるので紹介します。

『「行け満州へ」校門の傍らにある掲示板に、こう書いたポスターが貼られてある。私達は通学の途中何時でもこれに目をそそぐ。 ある日のこと、友達と話しながら門を出た時、芳子さんが例のポスターに目をとられて「満州はよさそうだな。この間、おじさんのさあちゃんが手紙をくださったが、それによると、学校で遠足に行く時でも、すこしはなれた所にいくにも、必ず、日本の兵隊さんがついて来てくれるので、匪賊が出てきても少しも心配はない、とかいてあったよ。それから、満州の女の子は、前髪を下げていて、左右の髪を下げているのでとても可愛いそうだ。それにその子供達は、学校を卒業しても、先生先生と慕って、先生の所へよく遊びにくるんだよ」などと満州のことをくわしく話してくれた。 芳子さんの話しに気をとられて歩いている中、何時の間にか別れ道に来てしまった。私達は皆と別れの挨拶を交わして各々我が家へと足をむけた。あたりはもう夕日が沈んで、山の腰が白いかすみにつつまれていた。帰る途私は、さき程の芳子さんの話から、満州のようすを想像しながら歩き続けた。先生もよく満州の話をしてくださる。先日も「満州移民は国策の一つであって、国民誰もがこの事について考えねばならない。特に若い人達で事情の許す限りの者は、是非自分の為、国の為に、発展しなければならない。」などと種々あちらの例を挙げられ話してくださる。 私はその先生のお話を聞いたり、又満州義勇軍の出発された時のあの盛んな見送り、ポスターの絵を見たりして、日本の最も関係の深い国、仲のよい国満州の様子を胸に描く。昔、高麗王若光は、朝鮮から渡られて、この私達の村をこんなに盛んにしてくださった。その事を思うと私達は、其の恩返しの意味に於ても、満州国に渡って、はてしなき荒野の一角に、高麗村のような、りっぱな村を建ててみたい。』

この中でいう「満州義勇軍の出発」とは満蒙開拓青少年義勇軍の見送りのことを指します。昭和13年3月12日 午前7時15分5年生以上が高麗駅頭に青少年義勇軍を送ったと学校日誌は記しています。 また次のページには「兵隊さんへ」という一文(高等科一年)があります。

満州開拓団の一部始終は他の成書に譲るが、その悲惨な最後と痛恨の念は日本国民が戦後久しく共有してきたはずである。憲法9条の理念「不戦の誓い」の礎石にこれら純粋な子供達への反省の誓いがあったと理解する。しかしもう一度、西村氏がふれた教育者の存在に注視したい。作文で紹介した高麗小の女生徒も先生の話を信じ、大人達の行動に疑いも持たず、天皇制のスローガンに巻き込まれていきました。記録によれば戦後昭和23年、高麗小には占領軍の教育視察団が来ている。当時の校長先生の回想記には「英語の話せない私は途方に暮れたが、アメリカの教育は子供になんでも発表させることだと聞いたことを思いだし・・・・」とある。戦前は天皇の御真影を奉安殿にかざり、戦後はアメリカに迎合する日本の教育者を作り出した権威主義、自らを殺し体制に順応する日本人の処世術がもたらした弊害にわれわれはふたたび陥っていないか。

この稿参考図書

高麗小学校開校100周年記念誌 日高市立図書館蔵
翼賛政治の研究  小野賢一著 新日本出版社  富士見市立図書館蔵

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2014/09/28 更新