日高と天皇

第10回  米軍機来襲

東京大空襲と地方都市空襲

太平洋戦争の末期、日本が獲得した太平洋上の島々は敵の勢力に押されて次々と失っていった。敵はそこに飛行場を建設し、日本への渡洋攻撃を開始する時代が到来する。その結果、日本各地に空襲がはじまった。 今回はそのような空襲が日高にもあった、ということを勉強する。 最初に元川越中学生(現在の川越高校)だった佐藤仁氏の体験談を紹介する。

高萩飛行場 勤労動員と空襲 佐藤仁氏ホームページ(「空襲の時代」より許可を得て転載)

  1944年(昭和19年)7月9日にサイパンが陥落し、米軍の飛行場が出来てから毎日空襲が行われるようになった。内地も戦場と化し、わが家も焼かれ命がけの日々が続いた。その思い出は強烈で、今も尚脳裏にある。その幾つかをご披露する。

 ある日A:  (東京府立豊多摩中学校2年の時)
 「カーン、カーン」と石が瓦にあったって、激しく叩くような音。空襲警報が鳴り、I君と一緒に家へ帰る途中だった。今の杉並高校の辺りで敵機に出くわし、わが軍の高射砲が火を噴いた。その弾(たま)は敵機の近くで炸裂し、小さな破片となって敵機を撃墜する目的を持っていた。しかし、見上げると1万メートルの高々度をB29の編隊が美しい銀色の翼を連ねて悠々と飛行し、高射砲の弾幕は遙か下の方ではじけ、いたずらに民家の瓦を痛めていた。 
 あの時の恐怖にゆがんだ友の顔が忘れられない。

 ある日B: (東京府立豊多摩中学校2年の時)
 空を見上げると、敵機は飛び去ってしまったのに、友軍機と思われる戦闘機がふわりふわりと落ちてきた。その内その飛行機からパイロットが飛び出て、落下傘で降りようとした。しかし、あぁー落下傘は巧く開かず、かなりもがいていたが相当なスピードで地面に向かった。その途中、パイロットは助かることを断念し、姿勢を正して挙手の敬礼をした…「さらば、祖国よ栄えあれ」とわが国の繁栄を願って、別れを告げたその若き人を思って胸が熱くなった。

 ある日C:  (埼玉県川越中時代)
 まるで映画を見ているようだった。林に隠れた我々中学3年生の近くで、硫黄島から飛んできたP51という米軍機が、「バリバリばり!」という凄い音と共に、機関砲を格納庫の新鋭機に浴びせかけた。そこは陸軍の高萩飛行場で、「疾風」の基地であり、当時私は川越中学の3年生で、勤労動員で行ってた。空襲警報が鳴り、帰宅の途中に敵機に遭遇し、林の中から友達と実戦を見物(?)した。恥ずかしながら、その最中に「死ぬか」と思い、次に「どうせ死ぬなら弁当をたべてやれ!」とむしゃむしゃ昼食を摂ったのだ…

解説

疾風    P51


P51戦闘機は陸上機ですが昭和20年4月7日からはB29に随伴して硫黄島から来襲しています。
7月頃には戦闘機だけで地上攻撃を行なっています。、『ガラスのうさぎ』という本で主人公のお父さんは、昭和20年8月5日昼過ぎ、神奈川県の二宮駅で待っている間に、十機編成の米軍艦載機P51からの機銃掃射をうけ、即死してしまいます。当時の米軍機に対する一般的な感覚だと、紺色の小型機(海軍機)は「グラマン」、銀色の小型機は「P-51、ムスタング」、銀色の大型機は「B-29」になります。 8月5日の真昼に関東地区の飛行場と交通機関を硫黄島から発進したP-51が攻撃し、夜間にはB-29の焼夷弾攻撃が行われています。 このP-51の1機は相模湾で撃墜され、搭乗員が米潜水艦に救助されています。 8月の米艦載機による初空襲は9日ですから(関東地方は10日) 5日の単発機の地上攻撃は9割方硫黄島からのP51ムスタングによる物です。  体験談を書かれた佐藤仁氏が襲われたのはこの8月5日ではないか。 この日で無いとすれば、所沢の空襲の記録に書かれている7月30日である可能性がある。「新鋭機」とあるのは後述する「キ93」ではないか。 (高萩飛行場は3月末に生徒・教官および練習機は満州への疎開決定、4月15日に日高を出発。8月にはすべての練習機は満州に疎開していた。 高萩飛行場についてのデータ) 。東大和市には1945年2月17日に艦載機が、1945年4月19日にP51が来襲しています。 → 空爆の記憶
1945年5月25日には東京大空襲があり、B29が525機、P51が61機来襲した記録があります。 

 敗戦後米軍が陸軍高萩飛行場で接収した飛行機はキ93(キ93 試作襲撃機(技研))1台であったとする記録がある。また8月22日に関東地区飛行場別燃料数量を大本営陸軍部がまとめた記録によれば航空九一揮発油が170キロリットル、航空八七揮発油が30キロリットル残っていました。

 飛行場の草むしりや清掃には周辺の小学校が協力を行った記録がある。川越中学の学生が勤労動員されたとあるが、どのような仕事だったのだろうか。  (この件に関し、佐藤仁氏からの補足 → 『動員でやった事は、飛行場の草むしり、防空壕作り−蛸壺という穴も大分掘りました。 職工さんと一緒に飛行機の部品を作ったり、「疾風」は頭が重いので着陸に失敗しひっくり返ったのを皆で引き起こしたりもしました。 仕事の合間を縫って国語や数学などの勉強もしました。』)

高麗川駅空襲 流れ弾が家を襲う 児童らの体を機銃弾貫通 (日高平和新聞35号より転載)

Uさん  「日高での戦争にかかわる2つのことを思い出しました。

   終戦の8月ころだと思うが、よれよれな2人の日本兵が土蔵に逃げ込んできて匿ってほしいいわれた。

   8月の日にちは記憶にないが、高麗川駅に止まっていた八高線の機関車を米軍機が、東の空から飛んできて機銃掃射をした。流れ弾が、駅西側のわが家の大黒柱をぶち抜た弾跡が残っていた。その時、お尻に受けた弾の傷あとが今でものこっている。朝日食堂の人は、子どもをおぶったまま弾が、当たり2人とも死んだ。新堀製材所の川村さんは両脚膝下を撃たれ弾が貫通した。

  銃撃後の治療は飯能の君塚医院で行った。ほかにも治療を受けた人がいました。

   夏になると、エンドウ豆入りの飯が、美味かった事を思い出す。

この日のことはUさんが詳しいのではないか。高麗川駅の八王子側線路の下で、今のヤオコーに通じる地下道(踏み切りのかわり)に機関銃の薬きょうがたくさん落ちていた、という話がある。(上鹿山在住 Kさん)

高麗川駅銃撃の正確な日にちがわかった。 ひだか平和新聞56号によれば、Uさんが市内の朝日食堂の遺族の方に会ってお話を聞いた記事がでている。仏壇に大切にお飾りしてあったご位牌に昭和20年7月28日とご命日が書き込まれていたのだ。Uさんのお宅に機銃を打ち込んだ戦闘機の進入角度もわかった。現在のヤオコー方面から飛んできた戦闘機は八高線の線路を横切りながら機銃を発射、そのまま県道を横切っていった。県道と駅前道路がぶつかるあたりに新堀製材所があり、川村さんが撃たれている。

日高商工会だより第147号の「歴史散歩 高麗川駅開業80周年」に以下のような記述がありました。

・小久保吉造氏(昭和2年生れ86歳)
子どものころ、駅からほど近い原宿の自宅周辺は森林に囲まれ、駅前にお店があったくらいで住宅はそれほど多くなかった。構内の広い駅は格好の遊び場で、貨車にいろいろなものを積み下ろしている様子などを見ているのも面白かったが、時には敷地に入って怒られたものだ。−中略− 昭和20年7月の米軍機による機銃掃射、終戦後の買い出しの人々、昭和22年の脱線転覆事故など、時代を反映させる事態を目の当たりにした・・・

高麗川駅の開業は昭和8年4月15日で、昭和30年に日本セメントが操業開始、引き込み線もできて貨物の取扱量が大幅に増加したころが一番駅員の数が多かった。役割を大別すると営業と構内があり、営業は駅手(掃除や手小荷物の運搬など)から始まり、荷扱手、小荷物係、貨物係、出札係、改札係、助役、駅長と続く。構内は連結手、転轍手、踏切警手、予備構内手、運転係、操車手、信号係と数多くの担当があり、最盛期は58名くらいの駅員がいた。


博物館 旧帝国陸海軍関連航空機のページ

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