こだま通信 36号 05年11月17日
木枯らしが吹く頃となりました。みなさまにはいかがお過ごしでしょうか。今月、9〜12日は韓国に行ってきました。あちらはすっかり秋の景色で、ソウルからプサンに向かう高速道路の休憩所には高速バスがたくさん並び、トレッキングシューズを履いた中年の男女がつくろぐ風景が目に付きました。
休憩所のジュース類の飲み物に、朝鮮人参エキスが入っているものを見つけましたので試飲してきました。少し苦味がありますがすっきりして甘い味でした。軽トラの荷台にみやげ物を積んだおじさんが居たので覗いてみましたら、置物などの石細工を並べていました。その中に直径3センチ、長さ15センチほどで両端が細くなっている緑色の丸棒を見つけました。聞きましたところ、掌や足の裏のつぼを押して疲れをとるのに使うと言います。試してみたところ気持ちがいいので買ってしまいました。
渡来人伝説(高麗家のルーツ)W
さて今回も「高麗家のルーツ」の続編です。実は韓国旅行最終日にソウル市内にある韓国戦争記念館に行った際、統一新羅時代の船の模型があったので写真を撮ってきました。各種ジオラマを含め「やじり」や剣などの先史時代の遺品もありました。 展示の中心は1950年〜53年の朝鮮戦争の再現シーンと韓国の軍事力の宣伝で、「憲法9条」を持つ国民としては刺激的でしたが、三国史時代や統一新羅時代の歴史も戦争という視点で資料をまとめていましたので、船や武具・武器・馬具など日本の古代遺跡から出土するものとの類似性が多く、大変面白いものがありました。
大昔の日高市にやってきた高麗家の先祖は神奈川県の大磯あたりにまず住み着いたようです。その人たちはあちらこちらに散らばっていた同じ仲間たちと一緒に日高の地にやってきて、およそ1800人の集団として高麗郡を作ったとされています。その政治の中心となる建物がどこにあったか、ということは未だなぞに包まれており、市の教育委員会が中心となって発掘・調査活動の報告書を見てもまだ結論が出ていないようです。飯能市にお住まいの元中央大学教授の池田氏のお話では、たとえば「丹」というのは水銀のことで、金箔を仏像に塗りつけるときに水銀が使われたのですが、地名に「丹」という名前が付いていれば水銀の採掘に関係ある場所であるとのことです。このような地名をたよりに考えると、もっといろいろのことがわかりそうです。
高麗家の現在の当主は「澄雄」氏というかたで高麗神社の59代目の神主さんをやっています。もとは中学の先生をやっていたこともある方で、歴史紀行小説家の故金達寿氏の作品の中にもしばしば登場する方です。このかたはある対談の中で、高麗家の先祖が朝鮮から渡ってきたことはまったく否定せず、当時「日本」という国家の概念も無く、朝鮮半島を含めた広い地域の中で渡来人たちは自由に暮らしていたと話しています。先住民であった縄文人、アイヌ人の集団は排斥され、あるいは統合されて共存していたとも述べています。したがってパスポートも持たず船に乗って大磯の海岸にやってきたことはなんの不思議も無い、と話しています。
これら先進の集団である渡来人たちは現在の関西地方や九州地方に拠点を持ち、朝鮮の文化や政治の仕組みをもたらしました。日本書紀は当時の諸国の動向や人の動き・暮らしぶりを知る重要な資料なのでしょうが、このような資料とは別に、日本各地に点在する神社や遺跡・古墳など「モノ」に着目した研究も盛んに行われているようです。 万葉集の詩歌の中から古代日本の暮らしぶりを想像する人も居ます。テレビ番組で「なんでも鑑定団」というのがあります。個人の物置に眠っている置物や掛け軸の値段を鑑定し、本物か偽物かを調べてくれる番組なのですが見ていると実にさまざまなモノが「お宝」として大事に保管されていることが伝わってきます。
日本には中国(唐の時代)からの仏教の伝来を通して培われた文化もありますが、自分の地域に伝わる伝承、お祭り、路傍の石碑、習慣、特に農村に残るしきたりなどのルーツは朝鮮にもある、と思って間違いないようです。
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