こだま通信30号  2005年5月9日

 5月の連休も終わりを迎えました。明日からはまた仕事と言う方もいらっしゃることと思います。
連休中のニュースといえば、JR西日本の脱線事故がありました。衝突のエネルギーはすざまじく、1両目はその長さが半分に2両目はマンションの壁に巻きつくように貼りついてしまいました。犠牲者の方には心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

 このニュースでは、はからずも埼玉県内の旧国鉄八高線(現在JR東日本)の列車転覆事故が引き合いに出されました。この現場は私の前の住所、埼玉県日高市内で起きた事故でした。慰霊碑が現場に建立されていますが、私もその前をたびたび通っております。地元紙の文化新聞(http://www.bunkashinbun.co.jp/index.html)でもこの転覆事故を特集しておりました。

1947年2月25日午前7時50分頃、国鉄中央線八王子駅発の群馬県高崎駅行きの列車(蒸気機関車)が買出し客を満載して埼玉県入間郡の高麗川駅構外手前1キロメートルの急坂カーブにさしかかった時、6両編成のうち2、3両目の連結器が外れて後部の4両が高さ5メートルの築堤ら転落して死者163人、負傷者249人を出す大惨事が起きました。(違う資料では死者157人負傷者210人の報もある)

同列車の運転機関手は、この事故に気付かずニ両を牽引したまま高麗川駅に到着しました。この運転機関手はまだ23歳で経験が浅かったのですが、同駅員に言われて初めて後部4両が脱線転覆したことを知ったのです。当時は戦後の食料難の時代で、米や野菜を手にいれるため農村地帯である八高線沿線への買出し客が多数乗っていました。

現場は半径250メートルの急カーブと1000分の20の勾配(1キロメートルで20メートル下がる)という下り坂で、全国でも珍しい危険な区間でした。この区間では通常時速50キロメートル以下を維持する決まりでした。ところが、車輌は買出し客で満載であったため減速が効かず時速55キロメートル以上がでていたと推測され、それが原因で脱線事故につながったものです。更に戦後間もなくのことで保線管理が充分でなく列車の老朽化も原因とされました。

これより遡ること、1945年8月24日 八高線列車正面衝突事故(死者104〜105名・負傷者67〜150名)が起きています。八高線小宮・拝島間の多摩川橋梁上で下り列車と上り列車(いずれも8800形式蒸気機関車+客車5両)が正面衝突し脱線転落、増水した川に流されたものです。これは信号故障による応急対応の失敗が招いた人的ミスとされています。

この八高線は途中、在日米空軍基地の「横田基地」敷地内を通過することは地元以外はあまり知られていません。拝島駅の北側に位置し、沖縄に次ぐ極東最大の在日空軍基地で、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争当時はB-29爆撃機の出撃基地として機能し、1960年代のベトナム戦争時も補給拠点として積極活用されていましたが、1971年以降は戦闘部隊が沖縄に移転したことにより、現在は輸送中継基地として機能しています。

私は1957年〜1962年にかけてこの横田基地の隣、米軍立川基地(現在の国立昭和記念公園)の周辺に住んでいたこともあり、夜間、飛行機のエンジンテストの騒音に悩まされた経験(基地被害)があります。思いだすのもいやな経験ですが、現在も基地被害は全国各地で続いているとの報道もあります。


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返信

渡辺様
こだま通信これからも読ませていただきます。
労働組合の弱体化がこのような事故の原因のひとつになっているような気がします。
過去の事故が事故防止の宝物と言う話を聞きましたが、まさにその通りだと思いました。
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