こだま通信28号   2005年2月27日

27号でお約束していた松澤さんのお話をまとめてみました。しかし録音が悪くよく聞き取れないところがありましたので、メモを参考にしながら纏めてみました。

松澤氏

どれだけ話せるかわかりませんが・・・
私は1928年生まれです。小学校2年生のとき日中戦争(シナ事変)が始まりました。小学校5年3学期の時に両親と共に日本から中国に渡りました。学校に入るため1945年に両親のところを離れ日本に戻ってきました。1945年17歳、7月末まで広島市にいました、当時は学徒動員で学校には行かず軍の指定した工場で働いていました。学徒動員の配置換えで1945年8月に当時の富山県福野の呉羽紡績工場内にあった呉羽航空株式会社に行きました。軍都でしたが昼は空襲警報が無かった。夜間、空襲がありました。昼間はロッキード38が飛んできました。空襲です。
ブーンと音がして機銃掃射です。びっくりして防空壕に入りました。体の震えが止まらない。 子供のときから軍国教育叩き込まれていたので大丈夫と豪語していました。2週間ぐらいで軍需工場は解散しました。 敗戦を迎えました。不安な気持ちが強かったです。引き上げ開始です。自分一人で帰郷しました。つらかったのは親兄弟を置いて出てきて一人になったことです。 広島爆心地に立って暗澹たる思いになりました。両親が死んだ人に拝みながら広島を後にしました。大声を上げて泣きました。18歳でした。よく生きられたと思いました。広島の原爆では友人が亡くなっています。 当時中国では蒋介石が日本人に対する攻撃をしていました。 不安が強かったのです。
 2週間後に引き上げがはじまりました。 その後両親が中国から引き上げてきました。その当時、私は進駐軍の人足をやっていました。  

以上が「すいとんを食べながら戦争体験を聞く会」での松澤さんのお話です。松澤さんのお話に出ていた「学徒動員で呉羽紡績で航空機生産」について調べてみました。

 今から60余年前の太平洋戦争末期、日本はドイツ軍のロケット機Meの図面を潜水艦で持ちかえりました。この図面を元にロケット推進機「秋水」を試作しました。この飛行機を戦闘に使用できるようにするには乗組員を養成する必要があります。このため操縦性、安定性研究と乗員訓練のため、軽滑空機、重滑空機の両種が製作されました。軽滑空機は空技廠で試作され、昭和19年12月に完成、MXY8「秋草」と命名されました。機体は木製で「秋水」と同じ全幅、全長を、翼面積を持ち、12月26日に初飛行、秋水の練習機として使えると判定され、更に2機が製作されました。「秋草」
は部隊訓練用として日本各地の小規模メーカーにより生産が開始されます。主なだったことろでは、前田航研(九州)、横井航空(京都)、松田航空(奈良)、呉羽航空(富山)、大日本滑空(仙台)などですが、終戦までに完成したのは1機でした。尚、「秋草」という名称は、陸海軍とも実施部隊ではほとんど使われなかったようです。松澤さんが勤労動員で行った工場とはこの中の呉羽航空(富山)だったと思われます。

 松澤さんのお話にあった学徒動員ですが、戦争のため大勢の男達が兵隊に行ったため工員が不足しました。その穴埋めのため中学生が工場で働いたのです。「呉羽紡績」は航空機の生産を請け負っていましたが、その頃の模様を伝える三菱重工の元社員のエピソードをインターネットで見つけました。「・・・(昭和19年)僕らが大門に行ってあの呉羽紡績工場で仕事を始めたのたが、紡績工場で航空機を作るというので、色々の点で随分工夫もし苦労もした。特に組立をする工場では航空機を真直ぐに並べるたけが能じゃない、工夫して斜めに並べろといって並べ直さしたりした。
そうしたら最後の総組立の処では、天井が低いから足の出し入れが出来ないといい出した。そこで、ちょっと来いといって足が出し入れ出来る丈の穴を掘らせて仕事をやらせた。そういう工夫 をこらしたものだ。
  又あの時は格納庫として海軍の千歳にあるのを大門に二棟持って来て、組立工場にするということで随分苦労もした。雪は一晩に三尺くらいも積った。それを軍隊まで連れて来て、雪かきや紡績機械の搬出をやらせ、そこに砂利を持って来たりして基礎を作った。仮組みを大急ぎでね。
  そうしたら敵機が来たんだな、ブーンといって……。(中略)・・・敗戦後はアルミを使って弁当箱や鍋を作り帰途に向かう中学生たちに持たせてやった・・・」 松澤さんがアルミの鍋か弁当箱を貰ったかどうかは聞き漏らしましたが今度聞いてみようと思っています。

 呉羽紡績の誕生を遡ってみます。呉羽紡績の誕生した地方はもともと繊維産業の立地に恵まれていたようです。 富山県の砺波平野のほぼ中心に位置し、散村の中心集落の一つである出町(砺波市街地)は、1649年(慶安2)に町立てされ、杉木新町とも呼ばれた町です。この町から放射状に周辺の町に伸びる道路がつくられたのは明治20年代です。1897年(明治30)には高岡から戸出・出町・福野を経て山麓の城端に至る中越鉄道(現JR城端線)が開通し物資の輸送が鉄道に代わりましたが、それまでは、砺波地方の産米や城端・福光・井波の絹、福野の木綿、出町の麻などは、扇状地を流れる川が利用され、小矢部川、庄川を通じて移出されていました。

 福野から井波・青島に通ずる鉄道(加越線)は1915年(大正4)に開通しました。鉄道の開通は沿線の産業の近代化に大きな役割を果たしました。1930年(昭和5)庄川の小牧発電所が完成し、電気が送れるようになりました。このため井波町の呉羽紡績、福野町の富山紡績、出町に中越紡織など沿線の町の周辺に繊維工場立地が相次ぎました。その後、馬車やトラックの運行に備えて町を結ぶ主要道路の改修が徐々に進められましたが、散村内部の道路は殆ど未改修のままであり、1945年(昭和20)頃の散村地帯の道路交通の状態はかなり悪かったと記録されています。農家に通ずる宅道はせいぜい3尺(約1m)ほどで、荷車の通れる道は限られ、人馬がようやく通れるような道も多かったと伝えられています。村と村を結ぶ道も6尺(約1.8m)程の曲がりくねった道であったそうです。

「呉羽」という言葉は、呉羽紡績発祥の地名であるとともに、わが国の紡織の歴史とも深いつながりをもつ言葉です。日本の紡織技術は中国からもたらされましたが、実際にその技術を伝えてくれたのが、むかしの中国の「呉」の国から渡来し、日本に帰化して大和朝廷に仕えた織女たちであり、呉織(くれはとり)、穴織(あやはとり)と称されました。呉羽紡績は戦後、東洋紡績に吸収合併されています。


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