こだま通信 第25号 04年12月2日
今晩は、冷え込むようになりましたがお風邪など引いてはいませんか。私の職場では何人かのかたがインフルエンザと思われる症状でお休みが出ています。わたしも頭が重くおなかが痛いので仕事はそこそこに切り上げて帰ってきました。
今日は新潟で仮設住宅の入居が始まったというニュースがありました。良かったなと思いました。しかし入居できた方は一部の被災者のみで、まだまだ大勢の方が避難生活を送っているとのことです。より一層の支援と行政の対応が急がれるよう望みます。
ところで毎週日曜日に見ているTV番組「新撰組」はいよいよ江戸に舞台が移ってきました。主演の香取慎吾君が演ずる近藤勇が江戸の将、勝海舟に会い甲府に戦いに行くシーンでした。近藤勇の墓は東京三鷹にあるのですが、高校時代に歴史のフィールドワークで武蔵野の寺社めぐりをした際に見つけたことを今でも思い出します。確か有名な文学者(森鴎外)の墓も近くにありました。現在はそのような活動は行っていませんが、戦争の記録を残すことに興味を持ち仕事の合間に少しづつ進めております。
さて今回は前回に引き続き、「日高にも空襲があった」と題して現在、日高市原宿にご在住で年金生活を送られている内野さんのお話をお送りします。このお話は9月に日高市で行われた「すいとんを食べながら戦争体験を聞く会」で収録したものの一部です。
「日高にも空襲があった」
私は1942年生まれです。終戦時は3歳です。ロシアの爆弾騒ぎでこどもをケアしなければいけないというのがありますね。それと似たように、記憶が3枚だけ写真のようにあります。広辞苑で調べました。こういうのはトラウマです。精神的外傷(PSD)です。どういう写真かというと、兵隊の写真です。私の家は農家でした。高麗川駅の近くの葬祭場の南方です。そばです。大きな家です。2階だてです。写真は兵隊で銃を持ってきました。もうひとつの写真は、怪我です。縁側があってがらすがありません。リヤカーに乗せられてた情景がうかびます。乗っている子供と母親がだっこしています。けが入院です。東飯能駅前のの君塚医院です。 医院は当時は木造です。病院の近くに川(堀)があった。入院中に巡視の人にやられる傷口の治療が痛いので逃げ出しました。真っ青な草が生えた土手があります。その場景が思い出せます。
この話しは今年の5月に東大和市の戦跡を訪ねる交流会がありました際にすこし話したことですが、今日の催しに備えて正確に調べたいと思いました。日高町史と日高市史には空襲の話しは載っていません。日高市史に旧陸軍の213万平米高萩飛行場の記事があります。空襲の記事はありませんでした。飯能市立図書館にいきました。飯能市史に飯能町に空襲の記録がありました。3月15日、東京大空襲後7月28日稲荷町一丁目、国防婦人会の解散式に向かう途中、稲荷町、細田栄吉議員の奥さんが、機銃掃射で死亡。民間人の死亡第一号です。また軍需工場のデンゲン(注、現在のKK新電元の前身)に空襲がありました。7月30日デンゲン機銃掃射、鯉沼善吉さんが亡くなり、負傷者多数とありました。埼玉県平和資料館発行の本に記載があったのは熊谷空襲、爆弾投下が8月14日にありました。この投下で234人死者が出ました。3630戸焼失です。
当時は高麗川村ですが村史は無い。空襲の記事はありませんでした。しかし私には傷があります。空襲の時に飛んできた弾が破裂して、これくらいありますがそれらの弾は子供のおもちゃになりました。今はありません。近くの大宮商会でガソリンスタンドですが、その隣の中島さん、天野さんのお母さんと天野順次さんがいましたが、天野さんのお父さんは軍人で南方に行って、生きて帰ってきました。天野さんのお母さんは教員で手記を書いています。題は「水車の音」です(コピーを配る)。その中で数行、日高の空襲が出てきます。しかし日付がでていない。わたしの記憶では両親は田んぼで草取りをやっていてお昼にあがってきて、昼食中に空襲警報が鳴るとすぐ空襲です。前回の東大和での交流会では死者が出たと言いましたが文書はありませんので不明です。手記の中で駅のほうでひどい機銃照射であったという記録です。自分史でありますが、よく調べたいと思っています。
機銃掃射の被害防止ですが、ふとんの3枚もかぶれば跳ね返せると言う伝聞でした。ふとんを引きずり出してきてそれだけで防御でした。私の傷は右の大腿部です。当時3歳です。貫通したのですが、骨にはぶつかりません。今残っている傷は銃弾が抜けたものです。下は縫いましたました。上は12センチぐらいで炎症でやかれている。自然治癒を待った。このため上は盛り上がっています。 受傷後、飯能中央病院は満床でしたので君塚医院に行きました。この私の受傷のとき、今は亡くなりましたが一緒に入った人がいます。駅前の通りを右にいったところの、新堀製材所の従業
員で川村さんです。当時は若いです、きれいな奥さんでした。その方は仕事中に空襲にあいました。
当時ののこぎりは丸鋸で、木くずを落とすくぼみに隠れました。しかし両膝を打たれたのです。病室は同じだった。可愛がってもらいました。奥さんが麦ご飯に配給のグリーンピースを炊き込んだごはんを持ってきました。わけてくれたのですがおいしかった。今でもおいしいと記憶にあります。この日は天野さんの手記に有るように、八王子へ行く機関車、蒸気機関車をねらった機銃掃射で駅の人も何人か死にました。これからも調査をしたいとおもいます。(続く)
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