こだま通信 第24回 2004年11月3日
10月は天災続きでした。中でも新潟中越地震は愕きの連続でした。我が家でもテレビやラジオの呼びかけに応じて義捐金を送りました。2歳の男の子がワゴン車の中から救出されたことは奇跡としか言いようがありません。レスキュー隊の人々が「意地にかけても」救出すると言っておられたことが今でも耳に残っています。職を賭して物事に集中することの大切さと同時に、カッコ良ささえ感じられました。その後の男の子の回復の模様がテレビで報道されましたが、いかにも元気の良い子供であることに改めて感動しました。同時に、このようにたくましい子供に育てたお母さんが亡くなり、お姉ちゃんも亡くなりこの子の将来のことを考えると可愛そうでなりません。ひるがえって、このような犠牲者が直接自分の身の回りに居られないのは、大変幸せな事だと思っています。
しかし何時どこで襲われるかは誰もわかりません。改めて身の回りの防災や、社会のシステムの改善に関心を持っていきたいと思っています。
「シベリヤ抑留者独白録」
さて今回は前回の濱田氏の手記「戦争前後」に引き続き、「シベリヤ抑留者独白録」と題して現在、日高市在住で80歳の清水さんの回顧録と96歳のすみやさんのお話をお届けします。このお話は9月に日高市で行われた「すいとんを食べながら戦争体験を聞く会」で収録したものの一部です。
私、清水と申します。今日皆さんと初めてお会いするわけでございますけれど、72年前に高麗川駅が出来たんですがそのころですね、八高線ができたのは。そんな昔のことを話をすると長くなりますのでやめます。昭和18年のことですが、私は体が小さかったから、あとはよかったんだけれども、兵隊検査は第一乙種で入隊しまして、東京で集合してそれから九州へ行きました。九州の博多から行ったんです。朝鮮の釜山を経由して満州の牡丹紅へ行ったんです。軍隊は千葉の砲兵隊だつたんですね。851部隊でした。入隊して一期の検疫が終わると編成替えがあって、部隊ができ
ました。南方行きが編成されました。私は残されました。3回編成替えがありました。こちらのかたが敗戦の話をされましたが、私は知りませんでした。原爆のことは帰ってきてから知りました。
満州で終戦を知りました8月12日でした。日本は負けたらしい、デマの話しが入ってきました。デマだったのですが「金抜き」されるから(笑い)というので抵抗を考えました。銃を18日に全部ロシア兵に徴収されたました。各部隊から集まりました。夜になってからかっぱらいに行きました。弾も集めました。そのときはすでにロシア兵はすでに終結したところに配置されていました。かっぱらいに行きましたが、ロスケの兵隊に囲まれました。終わりだなと思いました。しかしロシア人の通訳が言いました。「われわれは手向かいしないし殺しません、置いていってください」といわれました。要領が好いといいというかわれわれに帰る様に言われました。死ぬ気でしたが帰りました。いよいよ負けだなと思いました。
次の日、日本軍の本部から敗戦を伝えられました。半信半疑でいました。各部隊すべていっしょになりました。それで満州を出たのが9月の末でした、10月にシベリヤに行きました。10月12日に、満州を引き揚げて日本に帰れるとロシア兵から言われました。引揚の支度をしました。日本から行っているものが引き揚げていました。かわいそうですがみんな歩いているのです。みんな軍に付いてくるのです。宿営地で泊るのですが、子供が三人いるおばあちゃんと言われている人が歩けず、かわいそうなのでベルトの中あった乾板とキャラメルをあげました。おぶったりしょったりしました。載せてやったりもしました。そのときに持っているお米を靴下にいれてあげました。5合ぐらい入るのです。
そのごモランボンに終結しました。東京へ帰れるということで満州鉄道の汽車にのりました。貨車です。大きいです。その中にのりました。喜んでいるから立って乗るのですが、満員になったところで外の扉を閉めるのです。すし詰め状態です。汽車がストップして水を補給しました。ガキョウタイというソ連に入っているという話で車内は騒然となりました。そのままシベリヤに入りました。 日本では苦労した話しがあったということを聞きましたが、そのときはわかりましせんでした。軍隊に入っていましたが、鉄砲を撃ったことはありません。砲兵隊ですが作業中心でした。陣地構築でした。仕事をするところですという感想です。(拍手)
司会 「本当に悲惨ですね。飯能から来ていらっしゃる方、なにかお話願いますか」
飯能の電気屋です、すみや電気です。牡丹紅に行っていました。現在96歳です(ほーっと全員ため息)。 33歳で戦争前に召集されました。東寧という街に行きましたその奥の老黒山(ロウコクザン)にいました。弾薬を野積みにしていました。その長さは八王子から越生の間隔です。ものすごい弾薬を隠していました。5年間はいました。洞窟のなかです。先ほど日本に帰るというのがソ連だったと言う話しがありますが、終戦の間際に敵の中を本隊の中に戻りました。それから、輸送用の服を着ていました。全部それを取り上げられました。こじきになりました。馬小屋の中にいました。赤痢になりましたが、歩いて国境に行きました。ダモイ(帰国)だと言うので歩いていきました。そこから抑留生活がはじまりました。
抑留で3年いました。われわれがロシアの仕事をする理由はありません。しかし日本は8月15日の直前になって戦争に負けたことになっていました。わたしは抑留者になりました。なにも食べないでいました。骨と皮ばかりになりました。身体検査をしました。一番下です。丸8年間 軍隊で5年、3年はロシヤです。合計8年間居ました。 身体検査をやり死にそうなグループになりました。薬も無く重湯をのみました。弱ったときはご飯を食べては行けません。
41歳で帰ってきました。今は96歳です。倍も生きました。これまでシベリヤの話しをする機会がありませんでした。現在は不動産の賃貸の仕事をしています、休み無く働いています。今日は家族にちゃんと言ってきました。16時には帰るといって来ました。今日、シベリヤ抑留の話しを聞けるというのできました。先ほどの話しをお聞きして良かった。食べ物の無い世界で生きてきた人や、大怪我をした話しを聞きましたが全部お聞きしたかったことです。そういう人生を渡ってきました。
わたしは運が良いとか悪いというのは怠けているからだと思っていました。召集前は材木屋をやっていました。商売は繁盛していましたので、杉山の前山、これは一番とっておきたい木ですが、儲けようと思って2000本切るため、人を連れて山に行き、山から下りてきたら役場の小使いさんから召集令状を貰い兵隊にとられました。牡丹紅のロシアの兵隊がいたところです。良く生きてきたと思っています。今日は牡丹紅の話しや戦争に引っ張られた話しを聞けました。抑留されていた話しはすっかり忘れていましたが、みなさんのお話しを聞いて思い出すことができました。
私の友達で生きている人はだれもいません。2、3年前は生きていました。バスを待っている間にお茶のみ話ができましたが今はいません。ここまで生きてきた人間です。私は怠け者ではない、運が好い。まっさかりの方です。皆さんは好い時代を生きておられます。ゆっくりと余生を送ってください。ありがとうございました。(大きな拍手)
{解説}
今から60数年前、第2次世界大戦時、日本陸軍の一兵卒として応召、フィリピンなど南方諸島や中国大陸に派遣された日高出身者は多数に上る。戦死して遺骨が郷里に帰されたものが続出する。それらの人々の名前は慰霊塔に刻まれ今も地元の神社や公園に残る。しかし日本の敗戦時、中国大陸で武装解除された兵士60万人が、日本に帰還すると称してソ連各地に送られソ連国土建設に従事する。その中でシベリヤに送られた人々は寒さと飢えの中で大勢のかたが犠牲になる。帰国が果たされたのは戦後数年を経てからだが、清水さんやすみやさんはそのような体験をお持ちの元気なおじいさんでした。