こだま通信 第23回 2004年10月3日
今年は異常気象とでもいうのでしょうか、9月に入ってからも記録的な真夏日が続きました。つい先日は群馬県の浅間山が爆発して、こちら富士見市にも火山灰が到達しました。朝起きて見ると車にうっすらと白い粉が付着していました。火山灰と言えば九州鹿児島の桜島が有名ですが、今回のこだま通信は濱田徹氏の玉稿「断章― 一少年の敗戦前後」をご紹介します。
「こだま通信」の読者、濱田徹氏は鹿児島県出身でラ・サール高校から中央大学を卒業、ご職業は翻訳家。マンデラ「闘い・愛・人生」著者: アンソニー・サンプソン (2001年)など多数。氏は特攻基地の鹿屋で特攻兵士の見送りをし、米軍機グラマンの機銃掃射や爆撃機B29の焼夷弾攻撃を体験しています。
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断章― 一少年の敗戦前後
浜田 徹(時事英語翻訳)
僕の郷里は、鹿児島県垂水市である。小学校は国民学校に改称され、僕が入学した年に日本軍の真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が始まった。入学から卒業まで小学校の改称である「国民学校」に通ったのは、後にも先にも僕らの学年だけだった。
僕は三年生のときに垂水国民学校から母の勤務先の国民学校にまた米軍の爆撃で家が全焼した後は遠縁の親戚が所有しているミカン山の小屋に疎開し水の上国民学校に転校し、終戦後は垂水国民学校に帰った。国民学校時代に三回転校したわけである。
クラス全員喧嘩の強い順位がきまっていた。クラスの人数が六〇人いれば、一番から六〇番まで。順位がきまらない場合は、みんなが車座になってそのなかで殴り合いの喧嘩をやらせるのである。どちらかが泣けばそれで終わり。最初の転校のときに、クラスメート全員が喧嘩の強い順に一列に並んで「おい(俺)にかなうか」といってきた。喧嘩には自信がなかったので、びりのあたりで「うん、喧嘩をやってもよかど(やってもいいよ)」といったのだが、次の授業が始まっておあずけになり、その後やらされることはなかった。一度殴り合いに負けて泣きながら家に帰ると、男の子だったらもう一度喧嘩をして相手を泣かせて帰って来いと母に追い返されたこともある。
体育が苦手だった。クラスメートはみな農家の子で放課後は家の仕事を手伝い、農繁期は学校も休みになった。彼らは力が強く、敏捷だった。教科書などを買うために隣の垂水校区に行くときはたいてい喧嘩をふきかけられるので、荷台に木刀をさして自転車を全速力で走らせなければならなかった。現在のような空気入りのタイヤではなく、物不足のため固いゴムが車輪に巻きつけてあるだけなので、ゴットンゴットンとすごい振動だった。
学童は低学年の頃から早朝集落ごとに近くの海岸に集められて、「えい、やーっ」と声を張り上げてルーズベルト、チャーチル、蒋介石に似せたかかしを木刀で叩かされた。開戦直後、日本軍は破竹の勢いだった。
高学年になって日本軍の後退がつぎつぎに伝えられると、竹槍訓練が始まった。学校は「スパルタ教育」で、職員室に入るときは入り口で直立不動の姿勢をとり、「何年何組の何某、何々先生に何々の用で参りました。入ってよろしいでしょうか?」と元気よく叫ばなければならない。僕は「許可なしに職員室に入ろうとした」、当直のときウサギがいなくなったなどの理由で教員にしこたま殴られた。父からせっかんを受けた後、奉安殿(「(天皇のご真影〈写真〉が納められていた)に敬礼して来い」といわれたが、敬礼しなかったことがばれて追加で殴られたこともある。
日本の敗色が濃くなった頃近所に二年ほど年上の子供が家に遊びに来て、「日本は負けるよ」といったので母がたしなめたことがある。サイパン島や沖縄の陥落後は、それを感じながら誰も口にしなかった。一方で、「最後に神風が吹いて日本が勝つ」(「鎌倉幕府北条時宗執権の時代に来襲した軍は、『神風』が吹いたため日本に上陸できずに壊滅した」というのがその根拠になっていた)と宣伝されていたが、半信半疑だった。日の丸をはさんで神風と書いたはちまきをしめた特攻隊員が毎日トラックに満載されて鹿屋(かのや)基地に運ばれるのを見送った。
「きーみーがーあーよーおわー、ちよにーいいやちよにさざれーいしのーいわおとなーりてーこけのーむーすーまーああで……」(国歌君が代)、「うみーゆかばーみずくかーばーねー、やまーゆかーばくーさーむすかばねー、おおきみのー……」、「かってーくるぞといさましくー、ちかーってくーにをでたからはー、てーがらたてずにかえらりょか、しんぐんらっぱーふくたびにー……」などの軍歌をしょっちゅう聞かされ、歌わされ、「忠君愛国」(身命を惜しまず天皇と大日本帝国
のためにを尽くせ)、「滅私奉公」(己を捨てて天皇と大日本帝国のために働け)、「八紘一宇」(世界を平定して天皇を頂点とする一つの国家とせよ)、「大東亜共栄圏」(アジアは神国日本とともに栄える/アジア諸国への日本の侵略を正当化するスローガン)、「鬼畜米英」(米国や英国は鬼か畜生である)、「現人神」(天皇は人のかたちをした神であらせられる)、「天皇陛下万歳」、「天皇陛下の御為に命を捧げる」、「万世一系の皇室」、「大日本帝国」などと圧倒的なプロパガンダで「勤労動員」(僕らの場合は農作業)に駆りだされた。
僕も、「昭南島」(シンガポール)陥落の際に組織された行列に参加した。「隣組」から指示があったこの催しへの参加は拒否できず、さぼることもできない。抵抗など思いもよらないことであり、個人の抵抗を支えるべき批判力が育つわけもなかった。文字どおり狂気に駆られた巨大なカルト集団だった。
壮年の日本人男性は、赤紙で戦地に召集された。僕らが住んでいた村の端には柵で囲まれた「朝鮮人部落」がつくられ、大勢の朝鮮人がマッチ箱のようなバラック住宅に住んで海軍基地で働かされていた。
紀元節(神武天皇が即位したとされる日を祝う祝日/戦時中「紀元二六〇〇年」を祝う祝祭行事が行われた/戦後廃止されたが、現在「建国記念日」として復活している)や天長節(天皇の誕生日)には校庭で祝典が催され、校長が前後を教頭など二人の教員にまもられて勅語(天皇のお言葉)をうやうやしくげ壇上に進んで読み上げる間、直立不動の姿勢でいなければならない。当時、栄養が不足していたためか(穀類は口に入らず、芋ばかりだった)、暑い日差しのなかで倒れる生徒が続出した。
開戦後数年たつと日本軍は後退を始め、僕らはサイパン島守備隊の「玉砕」(全滅)、沖縄陥落などのニュースを聞きながら、近く上陸すると思われた米軍の攻撃に備えての訓練を受け、鹿屋基地からの特攻隊出撃を見送った。
父はアジア太平洋戦争で「戦況赫々たる」(連戦連勝)時期に生まれた娘を洋子と名づけ、日本軍の前線がつぎつぎに島づたいに後退(それぞれの島の守備隊は「玉砕」)していた時期に生まれた娘をカズ子と名づけた。もう戦争は終わって欲しいと思ったが、平和の和を使うことははばかられたのでカタカナにしたという(母の回想)。
夏休み、僕が母や妹たちといっしょにおなかをすかせて家で横になっていたとき突然空襲警報のサイレンが鳴り、B29(爆撃機)の焼夷弾爆撃とグラマンやロッキードなどの艦載機(航空母艦から発進する戦闘機)の爆撃・銃撃を受けた。隣の家の床下に避難していると近くに落ちたらしい爆弾の爆風の衝撃で、耳が聞こえないと一番上の妹(九歳)が泣きだした。母が貴重品をとりに家に帰ろうとしたので、僕は必死にとめた。わらぶき屋根が連なった周囲は火の海になり、国民学校五年生(一二歳)だった僕はずり落ちる二番目の妹(五歳/五年生だった僕の身体には大きい荷物
だった)を背負い、母は三番目の妹(二歳)を抱き、一番目の妹は自力で隠れる場所もないオープンな芋畑のなかを山の方へ数百メートルの距離を一目散に走った。
グラマンは黒、ロッキードは双胴銀色で、空が暗くなるほどの無数の艦載機が地上を覗いているパイロットが見えるほどの超低空で無差別爆撃・(人を狙って機関銃射撃を行なう)を行なった。
爆撃機が焼夷弾を投下して、住民が燃えている家を脱出するところを狙ったのだ。僕は夢中で走っていたためいつのまにか背負っていた妹を落っことし、背中が軽くなっていたのでふりかえると、彼女は一〇〇メートルほどうしろで両手をふってわーわー泣いていた。私は引き返して、彼女を再び背負って走った。
ヒューザッザッザッと爆弾の投下音、カタカタと機関銃の乾いた発射音、パチパチとわらぶき屋根が燃える音がいりまじった狂騒のなか、昼間の光に加えて火焔に明るく照らされた世界に放りだされてかなしばりにあったように感じた。機銃掃射の音は足からはい上がってくるようで、銃弾で体が地面に縫いつけられるのではないかと思った。伏せて伸ばした両脚に銃弾が命中しそうで自然に縮まる。家は、山へ続く畑と海に挟まれたうなぎの寝床のように細長い半農半漁の寒村の山側にあった。母は海の方へまた僕は山の方へ逃げようと主張し結局山の方へ逃げることになり、身を潜
めるときや走るときは米軍機の動きを見ながら僕が合図をした。「徹ちゃんは勇気があった」と、いまでも年老いた母はいう。逃げるのに必死だったのである。
幸い家族にけがもなく無事だったが、横穴防空壕(地元の住民はみな山に家族用の防空壕を掘っていた)の入り口にドラム缶を落とされて全員黒こげに焼かれた家族もあったと聞いたし、近くの海には死体が浮いていたという。砂浜には米軍機が落とした無数の六角焼夷弾(後尾に包帯のようなものがついていて、落ちる途中でくるくると電線などに巻きついて発火するけになっていた)が砂浜に突き刺さって林立し、信管を抜いた二本でドラム缶の風呂が沸いた(抜き損なって爆死した人もいたというし、僕はその油であげたという天ぷらを食べたこともある)。
空襲が終わって戻ると村は全焼して、隣の農家の牛が二頭焼肉になって胃袋が風船のように大きく膨らんでいた。山に向かって走りだす前に一時避難した庭先の待避壕は爆弾で吹き飛ばされ、山へ走りだす直前に隠れた樹の下のちょうど僕が伏せていた場所には爆弾が落ちていた。父は隣町にある勤め先の学校に日直で行っていたため、僕ら家族は焼け跡でしばらく呆然とした後、山越えで時限爆弾を避けながら隣町に逃れ、母の実家に避難した後遠縁の親戚のミカン山にある小屋に疎開した。
ある日抜けるような青空のなかをB29が一機銀色の機体をきらきら輝かせながら飛んでいるのを見ていると、どこからともなく終戦の報が伝わってきた。沖縄陥落後僕はいずれ米軍が南九州に上陸するだろうと覚悟していたので、これで米軍の爆撃と上陸の恐怖から解放されたと心底から解放感を味わった。小屋は二階建で僕ら家族は二階に住み、一階は家主のM家が食糧倉庫として海軍に貸していたので、僕は歩哨と仲良くなり銃の撃ち方を教えろとせがんだり、乾パン、ニンジンの缶詰、サケ缶をもらって食べた。いもばかり食べていた僕は、世の中にはこんなうまいものがあるのかと驚嘆した。
歩哨は終戦とともにいなくなった。ある夜ドドーンと音がするので下を覗くと、月明かりのなかを近くの農民らしい一団が米俵をかついで逃げるところだった。その後、将校がオープンカーを乗りつけて米を盗んで逃げたり、これを追って憲兵が聞き込みにきたりしたが、まもなく軍の武装解除と解体が行われたという。
終戦後僕が大好きだった母方の叔父が戦地から引き揚げ、横須賀に上陸したから近いうちに帰るという葉書、「荷物を肩にかついで元気で横須賀に上陸」という電報、「死す」という電報、「危篤」を知らせる電報が数日の間にこの順番で届き、叔母が千葉の病院に行って遺骨を抱いて帰ってきた。父方の叔父は「南方」から帰宅直後ふとんを山のように重ねて、がたがた震えて三日間寝込んだ。マラリアの発作である。彼は戦地での生活について一言も語らなかった。
僕ら一家は五年生のときM家の広い屋敷の一角にあった小さい住宅に引っ越し、僕は垂水国民学校に転校した。二階建の校舎は兵舎として使われていたが、病院を偽装するため大きな赤十字を書いた屋根が地面に落ちて瓦礫の山だった。しばらくは、授業はほとんどなく、瓦礫を片づける仕事が多かった。
『国のあゆみ』という茶色っぽい粗末な紙に謄写版印刷のように見える歴史教科書が配られた。内容は詳しく憶えていないが、新しい歴史観で「目からうろこ」の感じをもった。戦時中使っていた歴史教科書の「神武天皇」(第一代天皇とされているが、実在したか否かは不明)が先端にこ金色に輝く鳳凰(天皇の威光を示す鳥の王者)がとまっている弓を立てて、あたりを睥睨(あたりをにらみつけて威圧)しているは消えていた。
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