こだま通信 第22回  2004年9月3日

 こんばんわ。皆様、いかがお暮らしでしょうか。先日、軽い鞭打ちの治療のため整骨院に行きました。治療が終わり帰ろうとしたところ、看護士さんも含め全員の「お大事にどうぞ」の声で送り出されました。「お大事にどうぞ」というかけことばは「お気をつけになって、成就への道をお進みいただけたら」という願いの意味です。

家内のことですが、この夏に体調がすぐれなかったところ、軽いめまいをおこすようになりました。立ちあがったときに天井がぐるぐる廻るとか、テレビを見ていて姿勢を変えようとしたときにテレビの画面がゆれると訴えます。しょっちゅうおこすわけではありませんが、「血圧が関係している」とかかりつけの医師が診断してくれました。医者とは縁の深い人で「私より先にボケるのでは」と心配していましたところ、先日、あることが原因で入院してしまいました。現在もまだ入院中ですが、老健に入所している母と妻の二人の看護の手伝いをすることになり独身生活を楽しむ余裕はありません。しかし滅入っていては自分も落ち込むだけですので、この「こだま通信」で気分転換をはかっています。


日高と天皇「第8回」

 前回までは「日高に天皇が来た」ということをテーマにしたお話でした。 この話題は一区切りしましたので、今回からは「満蒙開拓団秘話」「シベリヤ抑留者独白録」「米軍機、日高を空襲」のテーマを取り上げます。

「満蒙開拓団秘話」
昭和6年(1931年)現在の中国の東北部に旧大日本帝国の後押しで満州帝国が建国されました。皇帝の名は溥儀(ふぎ)、昭和9年に訪日、昭和天皇じきじきの歓迎を受ける。この満州国に多数の日本人が入植、「満蒙義勇軍」と称し武装した日本人村を築く。しかし昭和20年、日本の敗戦をきっかけにその基盤を失い日本に引き揚げてくるが、犠牲者8万人の悲劇が生まれる。埼玉県日高市からも15歳で満州に渡った若者たちがいました。しかしあるものは死亡、あるものはソ連軍に囚われシベリヤ抑留の辛酸を舐める。このシリーズでは帰還者の証言集から心に留まったお話をご紹介します。

「シベリヤ抑留者独白録」
満蒙開拓団とは別に、日本陸軍の一兵卒として応召、中国に派遣された日高出身者は多数に上る。戦死して遺骨が郷里に帰されたものが続出する。それらの人々の名前は慰霊塔に刻まれ今も地元の神社や公園に残る。しかし日本の敗戦時、武装解除された兵士60万人が日本に帰還すると称してソ連各地に送られソ連国土建設に従事する。その中でシベリヤに送られた人々は寒さと飢えの中で大勢のかたが犠牲になる。帰国が果たされたのは戦後数年を経てからだが、それらのかたがたが抑留者組織を作り補償運動を起こす。日高市内にも支部があり抑留の記録を出版される。このシリーズではその中から心に留まったお話をご紹介します。

「米軍機、日高を空襲」
昭和20年8月、敗戦を間近にしたある日、太平洋上に浮かぶ孤島、硫黄島から多数の米軍機が日本各地を襲撃した。おもに駅や軍需施設を攻撃し大勢の方が犠牲になる。小説「ガラスのうさぎ」には神奈川県の平塚に襲来した米軍機が駅を攻撃し大勢の方が犠牲になった様子が描かれている。日高では現在のJR八高線高麗川駅や、元陸軍航空士官学校高萩分教場が標的になりました。日高の住人、内野氏も流れ弾で被災し現在も体にその時の傷が残っています。空襲を中心にした当時の様子を調べてみましたのでそのお話をご紹介します。

「それぞれの夏」
「こだま通信」の読者、濱田徹氏は鹿児島県出身でラ・サール高校から中央大学を卒業、ご職業は翻訳家。マンデラ「闘い・愛・人生」著者: アンソニー・サンプソン (2001年)など多数。手記「戦争前後」をいただいています。氏は特攻基地の鹿屋で特攻兵士の見送りをし、米軍機グラマンの機銃掃射や爆撃機B29の焼夷弾攻撃を体験しています。生々しい証言を要約するのは大変ですががんばってみます。

この回、終わり。

PS:和歌山県での地震発生でここ富士見も揺れました。ラジオの速報を聞きながらこのメールを
書いています。


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