こだま通信 第21回  2004年8月6日

暑い日が続きますね、皆様お元気ですか? 先日来局地的豪雨が頻発していますがそちらのほうはどうでしょうか。新潟では大災害になりました。知事さんあてに一億円の宝くじの寄付があり、話題になりました。ここ富士見市諏訪は市内高台より一段低い土地で、一級河川の荒川の堤防が決壊すると水浸しになる地域です。市のハザードマップ(防災地図)によれば床上浸水は免れないようです。もともと水田地帯であったのですが、昭和40年代に宅地開発が始まり現在のような水田と住宅が混在する町並みになりました。富士見という地名は全国にたくさんありますが諏訪という町名もまたたくさんあります。諏訪というのは近くにある「諏訪神社」から取って付けた名前だと思います。我が家から最寄の東武線鶴瀬駅までは徒歩で20分、途中にゆっくりとした上り坂の道がありますが、そこは田んぼと台地が接するところで上りきったところに「氷川神社」という古い神社があります。振り返りますと見渡す限り広い平野です。さらに進んでいきますと道は左に大きなカーブを描いており、そのまままっすぐ進むと東武線の踏み切りにぶつかります。踏み切り手前を右に切れて進めば鶴瀬駅です。いずれこの街の勉強をしてご紹介をしたいと考えております。


さて今回も地域史研究「日高と天皇」をお届けします。

第7回 天皇行幸と日高・飯能の少国民

私が入会している地域の読書会「日高・飯能民主文庫」会員の木下應佑さんから次のようなおたよりがありました。(「日高と天皇」を興味ぶかく読みました。・・・昭和16年(国民学校4年生)、17年(同5年生)、東京の八王子方面から蒸気機関車に牽かれた「お召し列車」が東飯能駅を通過し、高麗川駅に向かうのを、今の飯能市役所の反対側の線路近くで出迎え、見送った記憶があります。今の東飯能駅から高麗駅に向う西部秩父線(当時の吾野線)が、ぐっとカー
ブをして行く、その北側、そこから、今の聖望学園、当時の飯能実業学校(略称、飯実=ハンジツ)までの間は一望の畑でした。その畑の一部、八高線の線路近くを飯能第一国民学校(現在の飯能市立飯能第一小学校)が借りて、園芸実習地のようにしていたのですが、そこに並んで天皇の通過を迎え、最敬礼をしたのです。たしか赤田氏の本にそのときの生徒たちの生の声や発言が記録されていると思います。ぜひ調べてみてください。渡辺氏の連載が豊かになると思います・・・)このおたよりを受け取ってからまもなく本が届けられました。以下は「ぼくの軍国少年期 赤田喜美男著」よりの引用です。

 『行幸の日が近づくと、沿道では、汽車から見える学校などの窓ガラスはきれいに修理されていった。犬はつないでおくようにいわれ、注意人物は予め拘束されたり、見張りが付いたといわれている。 沿道の町村では、記録によると、一と月前から「奉送迎」の準備が始まった。通過駅のプラットホームに入場出来る人は高等官や町村長が予め決めた偉い人で、警防団、婦人会、中等学校の生徒などは、沿道に整列する場所を指定された。われわれ小学生も五年生以上が、その光栄に浴することになった。行幸の前の日には、先生から行幸の意義とお迎えする時の心構えの説明があり、学校から一粁離れた指定の場所まで行って整列、幾度も最敬礼の練習をした。

 その日が来た。ご通過の一時間以上前から道路に整列した。北風の吹きまくる日だった。服装は、破れのあるのはいけない、つぎの当たっているものならよいとされた。子供心にも周囲の緊張感はよく分かった。日頃の悪童どもも口もきかないで、時間が過ぎていった。やがて、かすかに汽車の蒸気の音が聞こえてきた。まず、ビヵピヵに磨かれた真っ黒な機関車だけが滑るように通って行った。二、三人のあごひもをつけた将校が「天皇旗」を掲げていた。「先駆だ」と感じた。すると、先生の「最敬礼」という緊張しきった号令。しばらくして、「直れ」という時には、列車の音が迫っていた。頭だけその方向に回して目迎目送にうつる。シーンとしたなかを列車が進む。と、三両目あたりに大きな金の菊の紋章、その上の窓に、軍装の陛下が前方を向いて直立しておられるのが見えた。「あっ」と私は口の中で言った。夢のような現人神の渡御であった。ほんの数秒の出来事だったろう。列車の音がはるかになった頃、「休め」の号令がかかって行事は終った。

 帰りは、皆解放されてにぎやかだった。そして、口々に感想を言った。
「汽車が煙りを吐かねえで通ったぞ」
「ガタコンガタコンちゅう音が、ちっとも聞こえなかったな」
「天皇陛下は、ピカピカ光ってまぶしかったなあ」
「気を付けして立ってたけど、ずっとあれじゃあ陛下もたいへんだんべな。駅が過ぎりゃあ座るだんべな」
「ほかの車にゃ誰か乗ってたけども、陛下だけ立たせてあれは不忠な人たちだ」
翌日先生は、御召列車が使っているのは、無煙炭といって煙が出なくて火力が強い最上級の石炭なのだと解説された。すべてが特別なのだと、みんな納得した。

 それからひとしきり、天皇陛下のことがひそひそ話の種になった。
「天皇陛下は、いつもどんな口をきくだんべな、やっぱり、チンオモウニなんてむずかしい言葉で話すだんべえか」
「食いものは、どんなものを食うだんべえな、食うとすれば、便所へも行くだんべえか」
「生きてても半分ぐれえ神様だから、たまに行けば済むだんべえ」
「みんなが前へ出るとぺコぺコしたら、かえってつまんなかんべえな」
「一番偉えんだから、そんなことはなれてべえ」
とにかく、天皇は、神であると教えられていたが、子供なりに神と人間の中間的存在であるょうに認識した天皇像を持っていた。顔が龍顔、体が玉体、手が玉手、機嫌良いことを天機麗しくと言っていたから、どこか違ったものなのだろうと、この年齢の頃は感じていた。』
 日高町史の高麗小開校100周年記念誌によれば、『昭和17年3月27日(金)晴、天皇陛下 豊岡士官学校行幸、午前初等科奉迎、午後高等科奉送』と記されている。それより2日前、奉安殿工事開始さる、との記述があります。

この時代は滅私奉公、鬼畜米英、粉骨砕身、聖慮深遠、教育勅語、軍人勅諭、などなど4文字熟語が氾濫闊歩していたころです。4文字熟語は簡潔明瞭を特徴とし、社会に余裕のないことを背景としています。現代もまた4文字熟語がもてはやされる傾向にあるようです。また当時は「人命羽毛より軽し」の時代で、丈夫な男子はみな兵隊に行かねばなりませんでした。そして戦争で大勢の人命が失われました。 時代は移り昭和が終わり平成の世になりました。高度経済成長も終わり、バブルがはじけました。デフレが進み収入が減りました。若者の就職難も恒常化しています。リストラで会社から放り出されるサラリーマンも急増しました。最近の報道では自殺者が三万人を超え、その中でも働き盛りのかたがダントツに増えていると報道されています。自殺の原因は経済苦・仕事の行き詰まりがトップですが、その方にも家族がいるはずです。命を落としてでも家族を守る、そのような姿が私には見えてきます。わたしもそろそろ停年です。「無事停年を迎えることができればいいな」と真剣に考えています。

この稿参考図書(前回と重複分は省略)
 ぼくの軍国少年期 赤田喜美男 まつやま書房 日高・飯能民主文庫蔵


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