Date: Wed, 31 Mar 2004
こだま通信 第16号
今日は日中、気温が上がり汗ばむほどでしたが、夜は一転して冷たい雨が降っています。時折強い風が吹きしんしんと冷え込んでいきます。実は今日まで4日間、九州の博多に行っておりました。飛行機を利用しましたが、丁度春休み時期でもあり、子供連れの家族がとても多く、満席便が続出していました。際立っていたのは空港の警備で、特に手荷物検査が厳しく、出発時にはズボンのベルトのバックルまでが反応するため、帰りの福岡空港ではベルトを外しました。それでもバックが引っかかり、別室に呼ばれてすべて中身を空けさせられました。ケース入りのハモニカが怪しまれたのです。私のほかには、コンビニ傘も凶器扱いで、小学生らしい子供のリュックに入っていた子供用のはさみもダメ。混雑に余計拍車をかけていました。九州新幹線が開業し、博多‐鹿児島間を愛称「ツバメ」が2時間で駆け抜ける時代に突入したためか、博多駅の混雑も激しいものがありました。
さて、今日は前回に引き続いて、日高と天皇「行幸余話」を送ります。
日高と天皇 (第4回 天皇行幸余話)
日高図書館に「開拓50周年記念誌、風雪に耐えて 日高町高麗川新宿地区」という記念誌があります。総ページ数70のこの記念誌まえがきには「・・・。昭和9年を中心に20数名の方々が、遠く北海道より青雲の志を抱き、この地に理想郷を築き上げるべく営々辛苦を重ね、開拓に励み立派な農業用地として、又第二の故郷としてこの地に根をおろし、・・・・」と記しているように、日高市の大部分は開拓者たちの手によって切り開かれて来たことが窺い知れます。前回ご紹介した旧高萩飛行場の所在地ですが、昭和12年に開拓地を陸軍が接収してできたことをは既に述べました。ではその開拓地区はどのようなものであったか、この新宿地区の沿革についてすこし紹介します。
この記念誌に昭和10年開墾入植図、が附属しており、昭和11〜20年新宿区全図と昭和21〜30年新宿区全図の、つごう3枚の地図が附属しています。1枚目の図には昭和16年軍用地拡張線と書かれた点線が引かれており、2枚目の図にはその線より東側が「軍用高萩飛行場」と記され真っ白になています。しかし一枚目にはきれいな升目が続き、おそらくそこに入植していた方のお名前であろう川口金次ほか8名の方のお名前が記されています。点線は2枚目、3枚目の図では一本の道路になっています。 現在の日高市の旭が丘という地名は国道407号線に沿った西側の地区で高麗川駅の東側に位置します。もし関東の道路地図をお持ちなら確認してみてください。
昭和3年ごろに埼玉県耕地課の指導で土地整理組合がこの地域一体に発足し、その整理組合の構成員の一つ、町屋長久保という地域が昭和9年に高萩村ほか二か村耕地整理組合と改称、3か村にまたがる山林約800町歩の大開墾事業が発足したと記されています。昭和9年に北海道旭川周辺から約30戸が集団移住し、高麗川村分の山林約150町歩の開拓を開始したのです。この800町歩の中の第1期180町歩、第二期70町歩が陸軍に買収されたのです。(前出、風雪に耐えて、年表より)後に高萩飛行場へと変貌させられました。年表と共に座談会も収録されているが、その中で高萩飛行場と昭和天皇行幸に触れたくだりがあるのでご紹介します。小見出しは原文のまま、発言者のご氏名はイニシアルとした。
(続く)
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