こだま通信 弟17号

前号より続く

強制的な家の移転 
編集部「飛行場ができたのは、強制的なんですか」、
U「軍の力が強く、命令的で無条件ですね」、
F「飛行場ができた時は、閉口しました。家を70mかみに持っていけと言われた。渡辺さん(だいぶ年配の人なんだけど)に頼みました。補償を貰わないと、3回程行きました。可愛そうだからと言って、返事をしてくれました」

天皇陛下の行幸 
編集部「天皇陛下の行幸の時、皆さんはどうなさいましたか」、
I「昭和13〜14年ごろだと思うが、盛装して、旗を持って送りました。内野さんのおじいさんは、紋付き着て、汽車が通り過ぎる迄、頭は上げず見なかったね」、
U「うちの親父なんか、根が有難がる方だから、はるかかなに行ってしまうまで、頭は上げないから・・・・。高麗川駅まで、お召し列車で来られた」、
I「15年7月に川越線(当時)が開通して、高萩までお召し列車が行くようになった」、
U「白線が引いてあって、機関士は、何日も前から練習をしたらしいんです。畑や田んぼに、こやしなんか車が通って見えるところに置いてはいけないとか、見回る人が、口うるさく言った。陛下が見える道路は、枝道でも、ちゃんと舗装されていた。ほんとに言いわけ程度だけど」

このような歴史の証言をされる方はもう日高市内にもわずかです。昭和12年(1937年)より65年が経過しているのだから、当時、20歳の方は85歳である。そのようなお年の方が日高に何人いらっしゃるのか? 日高市のホームページ、大字年齢別人口(平成11年)によれば高萩地区は96名、旭丘地区はわずか4名でした。

日支事変(日中戦争)以降、土地の価格がたいへん上がりました。当時、軍部は飛行場建設のため農地や山林を買収し、また資本家は軍需景気に沸いて工場をどんどん建てました。このため、そのような可能性のある地域の土地価格は高騰しました。しかしこの時代は小作農を抱えた大地主が大量の土地を所有していため、農家の2・3男が土地を持とうとすれば開拓に頼らざるを得ませんでした。以上、ご紹介した話はそのような話のひとつですが、せっかく開拓した土地を、軍隊に半ば強制的に取り上げられた悲劇としてご紹介しました。

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