Date: Thu, 26 Feb 2004 
こだま通信 第15号 

皆様春一番が吹きました。さる大学の入学試験会場に用があり行ってきましたが、みな子供のような(いや早婚であれば孫?)受験生で年齢差を感じてしまいました。総じてたいへん神経質、良く言えばこまやかな受験生で、温室育ちという感を強くしました。

 さて、3月3日はひな祭りです。子供のすこやかな成長を願ってお父さん、お母さんが雛人形を飾るご家庭もあると思います。我が家の場合、娘が生まれたときに私と妻のほうの実家がお金を出し合って、硝子ケース入りの雛人形をプレゼントしてくれました。そのプレゼントをしてくれた双方の父親はもう他界しましたが、妻の母は88歳(米寿)で元気に散歩をする毎日を送っています。、私の母は84歳になっていますがこれまでに3度も骨折(椎骨、大腿骨左右)をし、現在は右大腿骨骨折のため病院でリハビリ中です。先週、見舞いに行ったとき、車椅子でトイレに行けるようになったと喜んでいました。 さて今回は前回に引き続き「日高と天皇(陸軍飛行学校)」をお送りします。

日高と天皇(第3回 陸軍飛行学校)

 昭和14年4月、天皇行幸翌日の読売新聞夕刊には「聖上・荒鷲機の演習を天覧 高萩飛行場にて謹寫」と大きな見出しと写真(昭和天皇および秩父宮、側近達がヒナ段の上で飛行機編隊飛行を見揚げている情景)が掲載されている。(前回の記述で高松宮は誤り)当時の航空士官学校高萩分校が所有する練習機は型式が(キ八六)、別名アカトンボと称す。原型機はユングマン(Jungumann)。ドイツのビュッカー社の複葉練習機の型式名である。1934年(昭和9年)に原型機が初飛行した。当時の代表的な練習機で、姉妹機としてユングマイスターがある。日本では昭和13年にイギリス商会が両機を輸入して陸軍の試用に供した。陸軍・海軍ともに正式採用し国産化している。陸軍は1943年時点で1030機を製造している。なお海軍は277機製造した。海軍は別に複葉の「九三式中間練習機」を5591機生産している。高萩の練習機は戦争末期に満州に送られている。

 高萩への行幸より4年前、昭和10年ごろには列強が競って航空兵力を増強し始めていた。昭和12年7月7日、蘆構橋で日支事変が勃発したのち軍は各地に航空士官学校や飛行場を拡大していた。昭和13年10月10日、天皇裕仁は開設されたばかりの熊谷陸軍飛行学校(現航空自衛隊熊谷教育隊)へ行幸し、飛行機操縦教育を視察している。その後埼玉県坂戸、高萩、狭山、松山に飛行場が開設されている。中国戦線は拡大しており、航空戦力は都市攻撃を補完する段階から戦略的攻撃力に比重が移っており、航空兵力の増強は急務であった。高性能の軍用飛行機の生産、飛行場開設、将校学生、下士官学生、少年飛行兵、特別操縦見習士官など多種に渡り、その数も急速に増加していた。関東地方は平地が多く、農地や山林を強制的に購入して飛行場を建設した。少年飛行兵らは今の高校生の年齢で、太平洋戦争末期には特攻機や人間爆弾に乗り込んで戦場に散っていったと歴史書に記されている。

 日本はすでに昭和6年に満州事変を起こし、昭和8年に国際連盟を脱退し、中国の権益を拡大していた。海軍は建艦に力を入れていた。天皇裕仁には3歳下に秩父宮・4歳下に高松宮らの弟たちがいたが高松宮は15歳で学習院中等科を退学後海軍兵学校に入学、卒業後は任官し昭和14年には34歳の海軍少佐で、大本営軍令部の作戦将校であった。秩父宮は陸軍大正天皇第二皇子、昭和天皇の次弟で陸軍少将。S9年満州国皇帝即位慶賀のため派遣され、S12年には英国王の戴冠式のため渡欧。 この日の行幸は陸軍の航空兵力の備えを見る貴重な機会であった。この高萩への行幸ののち、9月には第二次世界大戦の火蓋が切られている。その後の昭和16年3月、17年3月、また19年3月にも修武台を訪れているが、16年12月の日米開戦の決心を固めた時には人材の養成に十分な自信を持ったに違いない。(現在、航空自衛隊入間基地。基地内に修武台記念館がある)

 陸海軍の要として天皇家の役割はきわめて大きかったが、2・26事件以降、東条ら軍部内の「統制派」の力が大きくなっていた。しかし、1944年6月にマリアナ海戦の敗戦以降、天皇の東条に対する信頼は失われ、7月には東条は首相を辞任し小磯内閣が誕生している。しかしその後、小磯内閣はレイテ島での戦局も回復できず、連合艦隊を失った天皇にとって本土決戦は必至の様相であった。しかし1945年2月に「皇道派」と手を結んだ近衛文麿元首相は「上奏文」を昭和天皇に提出し、本土決戦になれば国内騒乱状態になりソ連と手を結んだ容共勢力が主導権をとり、国体の護持は不可能になるとの進言をするに至っている。この「上奏文」を支持するグループに戦後、首相になった吉田茂がいる。

 閑話休題、本題に戻ろう。今回の連載を書くにあたり、埼玉らしい話題を探そうと思って資料を探してみた。富士見市立図書館には調査・研究のコーナーがあり、利用者の要求に応えて資料探索をしてくれるサービスがある。ここを利用して当時の新聞の閲覧を申し込んだ。その結果、昭和14年4月の新聞は朝日の縮刷版があること、読売新聞東京版の縮刷もあることなどが分かった。読売の埼玉版が浦和図書館にあるとの連絡を受け、早速電話を入れてみた。たしかに読売はマイクロフィルムで保存されているが、なぜか昭和14年4月版は欠けているとのことであった。しかし東京大学社会情報研究所附属情報メデイア研究資料センターにはすべての原資料が保存されているとの情報を得ている。(続く)

この稿参考図書(前回と重複分は省略)
 読売新聞 第2夕刊 昭和14年4月28日発行 横田八郎氏所蔵
 東条英機と軍部独裁(昭和の宰相「第3巻」) 戸川猪佐武 講談社文庫 私家本


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