Date: Mon, 2 Feb 2004 22:53:27 +0900
こだま通信 第14号
大寒も過ぎ、明日3日は節分です。最近は豆まきをする家庭も少なくなりましたが、先日の日曜日夜ののNHK第一放送のラジオコメディ 「みんな大好き!」 で「赤鬼さんと青鬼さん」を放送していました。中村メイ子、藤村俊二さんらが出演している番組です。ストーリーは、小学校の女の先生が毎年学校でやっている寸劇「赤鬼さんと青鬼さん」の出演者にクラスの子供のお父さんを頼んでいたのですが、酔っ払ったお父さんが怪我をして出られなくなったため、急遽ピンチヒッターで出ることになった家族の物語です。「赤鬼さんと青鬼さん」は嫌われてもいいからと親友のために悪者になる鬼の物語ですが、こういう話っていうのは現代でも希少なんですね。
今回は前回に引き続き、日高と天皇(第2回 お召し列車)を送ります。戦前、天皇は神であり、聖上と呼ばれていました。天皇の行動はまったく庶民には窺い知れず、戦後、天皇の「人間宣言」によって皇室がオープンになったため、続々と天皇に関する論文や日誌類が出版されました。今回のシリーズ「日高と天皇」はそのような公になった出版物を読み、こうであっただろうという推測も含めて書いています。
日高と天皇(第2回 お召し列車)
話は1939年(昭和14年)4月27日に飛ぶ。この日、広い宮城内は森閑として朝もやの中にたちこめる霧の中に陽光は差し、外界とは隔絶された世界に独特の雰囲気が漂っていました。時代は日中戦争(日支事変)のさなかにあり、日本は中国戦線にたくさんの軍備、兵士を送り込んでいました。戦争開始後14ヶ月を過ぎていましたが、国民を戦争に駆り立てる国家総動員法が敷かれ、赤紙一枚で戦場に送り込まれる時代でした。また庶民は兵隊と同じ気持ちで生活をしなければならず、不自由の多い戦時色濃い時代に突入していました。子供達は戦場に送る兵士への手紙を書き、女達は「千人針」という布を集め兵士達に送っています。「日の丸弁当」ということばはこのころに生まれています。日米開戦の象徴である真珠湾攻撃はまだずっと先のことであり、当然、米軍による都市爆撃はこのときはまだ始まっていなかったのです。しかし1937年には陸軍は日米間の戦争を開始するための計画をたてており、その計画に沿った準備は1941年には終了する予定でした(東京裁判検察側資料)。そういうわけで空襲の恐れは十分にあったのでしょう、1935年、宮城内には小さな防空室が建てられ、その後1937年(昭和12年)4月に防空法発布、同年7月の日中戦争の勃発に至って、宮城内に「御文庫」と呼ばれた強固な防空壕が計画されました。1938年には昭和天皇の母・貞明皇后の「御文庫」を建てた大林組が1941年4月に昭和天皇のための「御文庫」着工、その後秘密裏に完成していました。当時、庶民の防空壕が木と石と土でできていたのに比べると、「御文庫」の天井のコンクリート厚は3メートルでかなり大きな爆弾にも耐えられよう設計されていました。いずれにしてもまだ空襲は無く、首都東京はバケツリレーを中心とした防火訓練が始まり、すべての人々が戦争へと駆り立てられていったのです。
今日、昭和14年4月27日は陸軍航空士官学校52期生の卒業式です。御所の昭和天皇裕仁は別室の皇后、良子(ながこ)妃の押すブザーで起こされました。侍従達はいつもどおり天皇の支度を助け、軍装に寸分の乱れも無いように細心の注意を払わねばなりません。天皇の靴はピカピカに磨かれ、糸くず一本の汚れも許されなかったのです。侍従は陸海軍人が側近として奉仕する体制で、その長である侍従長は戦時には海軍軍人が勤めていました。百武侍従長の説明を聞きながら支度を整えると、別室に控えていた高松宮のご機嫌伺いを受けました。高松宮は弟宮でありながら海軍の将校の身分であり、軍艦生活が長期にわたることもありましたが生活の基盤は皇居を中心に営まれていました。天皇への折々の接触や皇族たちの交流も頻繁に行われていましたが、高松宮はこの年の二月から三月にかけて日中戦争の中南支戦線および北支戦線の視察に出かけており、この日の同行はその直後の行動といえます。すでに松平宮相、石黒行幸主務官、宇佐美侍従武官長らは揃って出発を待っています。衛兵に囲まれた黒塗りの車は宮城を出発し、西に向かってゆっくりと走りやがて現在の山手線原宿駅特別ホームに到着しました。天皇の乗る鋼鉄製の御料車を挟んで宮内庁・鉄道局・警察関係者が乗込む一等・二等の「供奉車」を含む5両編成のお召し列車はすでにホームに入っており、先頭に菊の紋、日の丸の小旗を十字に組み合わせた蒸気機関車C51は盛んに蒸気を吐き出しています。のちの首相、東条英機中将・航空総監は駅にて昭和天皇一行を出迎えたのち、全員がお召し列車に乗り込む。午前9時15分、列車は定刻どおり原宿駅を出発しました。列車は新宿駅を過ぎると中央線に進入し、一段と速度を上げていきました。
当時の記録によると、お召し列車が発着若しくは通過する駅においては、駅長の管理のもとに関係者以外の一般構内立入りを禁じ、また駅職員であっても必要外の者はプラットホームに出してはならないとされていたからまったくのフリーパスでありました。しかし規律ある団体による離れたホームからの奉送迎は善しとするとあり、つまり「関係者以外は誰もプラットホームに入ることは出来ず、また、立入りを許され附則にある「規律ある団体」とは学徒や軍人等でありました。一般列車の往来は該当する時間内は全て通過または離れた側線で待機、あるいは手前の駅で折り返し運転などして一般国民の乗降は一切禁止されていました。通過する駅においてはまず待避、或いは行違う一般列車は、直前に駅長または車掌より通告があり、御召列車が通過する側の窓を閉めずとも、覗き込むこと無きように(覗いてはいけないのだから写真は不可)という注意があり、また、側線・機関庫に駐機の機関車も、黒煙と汽笛は厳禁でした。行き違う列車の速度は徐行程度であり、まさにそこのけそこのけお馬がとおる状態でした。
同行のメンバーは高松宮のほか東条英機中将・航空総監、宇佐美侍従武官長、松平宮相、百武侍従長、石黒行幸主務官らでした。このメンバーの名前については横田八郎氏の著書や日高町史に明らかです。当時の列車に防空用の特別室があったかどうかは分からないが、アメリカとの戦争がはじまってからは、そのような設備がつけられたと鉄道愛好者のホームページに出ていました。 お召し列車は三鷹駅、立川駅を過ぎると多摩川にかかる日野橋鉄橋に差掛かります。見晴らしの良い光景の向こうにはまだ冠雪の富士山が望める。立川には広大な軍の飛行場があり、軍用機の修理・組立て工場も展開していたといわれます。立川を過ぎれば豊田、八王子とつながり、列車は出来て間もない八高線に進路を変えました。八王子の先の東淺川駅は昭和天皇の父母の墓である大正天皇陵(多摩御陵)へつながる皇室専用の駅であり、広大な天皇陵の敷地へつながる道には玉砂利が敷き詰められていました。さように、昭和天皇にとって八王子はひときわ重要な土地であり、伊勢の神宮への参拝同様、お召し列車による移動は国家の重要な行事でした。八王子を過ぎ、金子・東飯能、を過ぎると11時、高麗川駅にお召し列車は到着する。高麗川より川越はまだ線路はつながっておらず、天皇をはじめ関係者一同は自動車に乗り込むと目的地、豊岡の陸軍航空士官学校の卒業式に向かいました。
次号(陸軍飛行学校)に続く。
この稿参考図書(前回と重複分は省略)
昭和天皇の15年戦争 藤原彰 青木書店 私家本
天皇裕仁と東京大空襲 松浦総三 大月書店 富士見市立図書館蔵
高松宮日記 中央公論社 日高・飯能民主文庫館蔵
牧野伸顕日記 中央公論社 富士見市立図書館蔵
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