Date: Wed, 7 Jan 2004
こだま通信13号
2004年が始まりました。えとであらわすと申年、人間に近い動物のせいか身近に感じるのは私だけでしょうか。いただいた年賀状を見ているとなんとなく頂いたかたのイメージが重なります。昨年はイラク戦争が起こり、大勢の人が砲弾に傷つき、倒れました。罪も無い子供まで巻き込んだ忌まわしい争いは早くなくなってほしいものです。
さて今回からは「日高と天皇」というテーマで、郷土のストーリーをお届けします。私の子供たちが育った日高の紹介をしつつ昭和天皇をキーワードにして平和の問題を考えていきたいと思っています。なお日高市のHPは以下のURLでご覧になれます。
http://www.city.hidaka.saitama.jp/h.nsf/pages/home
日高と天皇(第1回 武蔵高萩駅)
埼玉県日高市高萩地区にJR川越線武蔵高萩(むさしたかはぎ)駅がある。日高市は人口約5万人、埼玉県西部に属し市のキャッチフレーズは緑と清流の都市日高である。奈良時代高麗人により開闢されたという高麗神社、聖天院などの名刹があることでも有名である。名産は栗(マロン)で農協の売店には農産物のほか花や植木も多く並べられる。日高市は昭和の大合併でそれまでの高麗川村・高麗村でできた日高町にそのご高萩村が合併している。
市内の中心を西から東に高麗川が流れていて市の西部は秩父山系の裾野にあたる風光明媚な場所である。私の家からは東に筑波山が見えるような高台の住宅街も点在している。そういうわけで冬が終わり春から初夏にかけての萌黄いろの色合いを私は大好きで、山が笑うというのはこのことかと季節の移り変わりを楽しんでいます。しかしこの日高市には不思議な地域があるのです。整然と区画整理された縦横2KM四方の土地に整然と桝目が切られています。この地区はもともと戦前、開拓地として入植者に与えられたものですが途中、陸軍に接収され戦後また農耕地として県が売却した場所でした。(この話は次回以降に触れたいと思います。)
市制施行後14年になるが市内にはこの駅のほかにJR八高線高麗川(こまがわ)駅、西部秩父線高麗(こま)駅がある。高麗駅は近年マンジュシャゲの群生で有名になった巾着田(キンチャクダ)や、私が住んでいた東急武蔵台団地への乗降駅である。この武蔵高萩駅に隣接して今回の話の主役である、昭和天皇行幸記念碑が建てられている。記念碑には昭和天皇が昭和16年、17年、19年の3回にわたって立ち寄ったことが記録されている。この駅舎は昭和15年に川越線(埼玉県大宮ー高麗川駅間を結ぶ)の開通と同時に開設され、豊岡村の旧陸軍航空士官学校の卒業式に参列する昭和天皇のために、田舎の駅には不似合いな立派な車寄せと貴賓室、防空壕を備えていたと伝わっています。構内には天皇専用列車(お召し列車)専用のホームがあり、原宿を出発した天皇専用列車はこのホームに停車すると近隣の村から動員された小学生らの日の丸の小旗に迎えられた、と郷土史は記録している。
天皇はすぐに黒塗り自動車に乗り換えると現在の国道407号線を南下、入間川にかかる現在の豊水橋を渡って士官学校に向かったとされる。この駅舎は近く取り壊され、新しい駅舎に生まれ変わることが決定されている。一時期保存運動も起こるなど地元にとっては記念碑的な存在である。
さてすこしぶらぶらと電車の旅を味わっていただこう。
東京新宿より埼京線川越行きに乗り、赤羽・大宮を経て川越駅に着いたらすぐ反対側に川越線のホームがある。このホームを始発とする高麗川行き、または八王寺行きに乗り換えること約17分で武蔵高萩駅に着く。線路は単線で電化されたのはつい最近で、それまではジーゼルカーであった。もっとそれ以前は蒸気機関車であった。ホームに降り立ち、木造平屋建ての駅舎の改札を抜けると駅前は広く、だらだらど下がる一本の道路の両側には桜並木が立ち、タクシーがのんびりと客待ちしている。駅に着いた列車が走り去ったあとは乗降客も無く、タクシーもどこかへ居なくなっている。どこにでもある田舎の駅の風景である。茨城県にJR高萩駅という駅名があるが、この駅名と混同しないようにという趣旨で武蔵という名が冠せられたのである。
参考資料 日高市市史 通史編 日高図書館蔵
同近代・現代史料編 日高図書館蔵
読売新聞 s14・4・24付け 横田八郎氏所蔵
ふるさとの記憶 横田八郎 日高図書館蔵
昭和史の埼玉 史の会 日高図書館蔵
埼玉県の歴史 小野文雄 山川出版 日高図書館蔵
ふるさとの想い出写真集 図書刊行会 日高図書館蔵
日高の歴史散歩 日高町教育委員会編 日高図書館蔵
後書き この通信の読者の濱田氏(伊豆在住)から原稿を頂きました。機会を作ってご紹介したいと思っています。
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