日高と天皇  第13回 

紙上座談会 後世に残す

私達の戦争体験  すいとんを食べながら戦争体験を語る会 於日高市立高麗の郷


満州での生活  80歳 日高市楡木在住 男 

 私、SMZと申します。今日皆さんと初めてお会いするわけでございますけれど、72年前に高麗川駅が出来たんですがそのころですね、八高線ができたのは。そんな昔のことを話をすると長くなりますのでやめます。昭和18年のことですが、私は体が小さかったから、あとはよかったんだけれども、兵隊検査は第一乙種で入隊しまして、東京で集合してそれから九州へ行きました。九州の博多から行ったんです。朝鮮の釜山を経由して満州の牡丹紅へ行ったんです。軍隊は千葉の砲兵隊だつたんですね。851部隊でした。入隊して一期の検疫が終わると編成替えがあって、部隊ができました。南方行きが編成されました。私は残されました。3回編成替えがありました。こちらのかたが敗戦の話をされましたが、私は知りませんでした。原爆のことは帰ってきてから知りました。
 
 満州で終戦を知りました8月12日でした。日本は負けたらしい、デマの話しが入ってきました。デマだったのですが「金抜き」されるから(笑い)というので抵抗を考えました。銃を18日に全部ロシア兵に徴収されたました。各部隊から集まりました。夜になってからかっぱらいに行きました。弾も集めました。そのときはすでにロシア兵はすでに終結したところに配置されていました。かっぱらいに行きましたが、ロスケの兵隊に囲まれました。終わりだなと思いました。しかしロシア人の通訳が言いました。「われわれは手向かいしないし殺しません、置いていってください」といわれました。要領が好いといいというかわれわれに帰る様に言われました。死ぬ気でしたが帰りました。いよいよ負けだなと思いました。
 
 次の日、日本軍の本部から敗戦を伝えられました。半信半疑でいました。各部隊すべていっしょになりました。それで満州を出たのが9月の末でした、10月にシベリヤに行きました。10月12日に、満州を引き揚げて日本に帰れるとロシア兵から言われました。引揚の支度をしました。日本から行っているものが引き揚げていました。かわいそうですがみんな歩いているのです。みんな軍に付いてくるのです。宿営地で泊るのですが、子供が三人いるおばあちゃんと言われている人が歩けず、かわいそうなのでベルトの中あった乾板とキャラメルをあげました。おぶったりしょったりしました。載せてやったりもしました。そのときに持っているお米を靴下にいれてあげました。5合ぐらい入るのです。
 
 そのごモランボンに終結しました。東京へ帰れるということで満州鉄道の汽車にのりました。貨車です。大きいです。その中にのりました。喜んでいるから立って乗るのですが、満員になったところで外の扉を閉めるのです。すし詰め状態です。汽車がストップして水を補給しました。ガキョウタイというソ連に入っているという話で車内は騒然となりました。そのままシベリヤに入りました。 日本では苦労した話しがあったということを聞きましたが、そのときはわかりましせんでした。軍隊に入っていましたが、鉄砲を撃ったことはありません。砲兵隊ですが作業中心でした。陣地構築でした。仕事をするところですという感想です。(拍手)

抑留生活を生きぬく 96歳 飯能市在住 男

 飯能の電気屋です、SMY電気です。牡丹紅に行っていました。現在96歳です(ほーっと全員ため息)。 33歳で戦争前に召集されました。東寧という街に行きましたその奥の老黒山(ロウコクザン)にいました。弾薬を野積みにしていました。その長さは八王子から越生の間隔です。ものすごい弾薬を隠していました。5年間はいました。洞窟のなかです。先ほど日本に帰るというのがソ連だったと言う話しがありますが、終戦の間際に敵の中を本隊の中に戻りました。それから、輸送用の服を着ていました。全部それを取り上げられました。こじきになりました。馬小屋の中にいました。赤痢になりましたが、歩いて国境に行きました。ダモイ(帰国)だと言うので歩いていきました。そこから抑留生活がはじまりました。

 抑留で3年いました。われわれがロシアの仕事をする理由はありません。しかし日本は8月15日の直前になって戦争に負けたことになっていました。わたしは抑留者になりました。なにも食べないでいました。骨と皮ばかりになりました。身体検査をしました。一番下です。丸8年間 軍隊で5年、3年はロシヤです。合計8年間居ました。 身体検査をやり死にそうなグループになりました。薬も無く重湯をのみました。弱ったときはご飯を食べては行けません。 

 41歳で帰ってきました。今は96歳です。倍も生きました。これまでシベリヤの話しをする機会がありませんでした。現在は不動産の賃貸の仕事をしています、休み無く働いています。今日は家族にちゃんと言ってきました。16時には帰るといって来ました。今日、シベリヤ抑留の話しを聞けるというのできました。先ほどの話しをお聞きして良かった。食べ物の無い世界で生きてきた人や、大怪我をした話しを聞きましたが全部お聞きしたかったことです。そういう人生を渡ってきました。

 わたしは運が良いとか悪いというのは怠けているからだと思っていました。召集前は材木屋をやっていました。商売は繁盛していましたので、杉山の前山、これは一番とっておきたい木ですが、儲けようと思って2000本切るため、人を連れて山に行き、山から下りてきたら役場の小使いさんから召集令状を貰い兵隊にとられました。牡丹紅のロシアの兵隊がいたところです。良く生きてきたと思っています。今日は牡丹紅の話しや戦争に引っ張られた話しを聞けました。抑留されていた話しはすっかり忘れていましたが、みなさんのお話しを聞いて思い出すことができました。

 私の友達で生きている人はだれもいません。2、3年前は生きていました。バスを待っている間にお茶のみ話ができましたが今はいません。ここまで生きてきた人間です。私は怠け者ではない、運が好い。まっさかりの方です。皆さんは好い時代を生きておられます。ゆっくりと余生を送ってください。ありがとうございました。(大きな拍手)

{解説}
 今から60数年前、第2次世界大戦時、日本陸軍の一兵卒として応召、フィリピンなど南方諸島や中国大陸に派遣された日高出身者は多数に上る。戦死して遺骨が郷里に帰されたものが続出する。それらの人々の名前は慰霊塔に刻まれ今も地元の神社や公園に残る。しかし日本の敗戦時、中国大陸で武装解除された兵士60万人が、日本に帰還すると称してソ連各地に送られソ連国土建設に従事する。その中でシベリヤに送られた人々は寒さと飢えの中で大勢のかたが犠牲になる。帰国が果たされたのは戦後数年を経てからだが、SMZさんやSMYさんはそのような体験をお持ちの元気なおじいさんでした。

「鹿児島での戦争体験」 昭和12年生まれ 日高市新堀在住 男

 私は12年生まれです。鹿児島です。話をします。私の鹿児島で小学校6年生です。国民学校です。昭和17年4月15日に日本への空襲が始まりました。 25 東京、横浜、名古屋、昭和19年になってB29の基地ががマリアナにできて来て空襲が本格化しました。20年1月元日に櫻島にきました。高射砲を撃ったが届かなかったそうです。北海道から騎馬隊が来ました。7万人に山菜をとってあげました。芋などを兵隊さんにあげました。

 橘というところがありまして薩摩の北側です。拉致された・・・吹き上げ浜に上陸するということで沢山の機雷が並べられました。沖縄に1月①日に上陸、5月には艦載機が来ました。B29はマリアナから来ました。九州全域が空襲の対象になりました。講演の依頼をうけすぐ鹿児島の市役所に連絡をいれその資料を送ってもらいました 鹿児島市は20年3月18日を最初にして 8月6日まで8回の空爆を受けました。被災状況は資料にまとめてあります。(コピー配布)

 当時6年でしたが沖縄が占領されてから、毎日朝になると薩摩半島の上空にきのこをうかべたように飛行機が飛来するのです。鐘がかんかん鳴るので家に引き揚げる、間に合わない人はたんぼに水路が引いてあるのに伏せてそれから帰りました。空襲は田植えが終わってからなので被害は少なかったです。田植えもできました。家は海岸沿いです。山の中に疎開しまして朝と夕方作業しました。

 この間にあったことですが、胴体が二つあるのです。双胴のぐラマン、B29、単発も来ました。私が書いた詩があります。8月15日、突然バリバリときた。ぐラマンはこんなことは許されぬ。ばかもん。当時を想いだして書きました。武器を持たない人に。金を持たないもの。書いた詩があるくらい印象深い状況でした。鹿児島の人たち、市役所から送ってきた小冊子があります。そのひとつがお手元にございます。FAXできましたので、拡大してあります。

 原爆は小4の時、S18年に聞きました。日本が最初に作られるだろう勝つだろうと聞いていました。まっちばこぐらいの爆弾だと知りました。日本は勝つんだと言う気持ちを持ちました。本土決戦の中の態勢の中で終戦を迎えました。私の町も13、12日に焼け野原になりました。わたしのまちも焼けただろうと思います。60年安保に参加しました。アメリカべたりの政治になっています。米ソの代理戦争、アメリカの一国が支配する世界になっています。もうすこし言えば、話し合いをして解決して欲しい。難民のこともあります。ちょっとした機会で平和委員会に入りました。力を合わせていけば良いと思います。昭和40年に書いた詩を、ベトナム戦争のときのことです。・・・を読ませてもらいます。シュバイツアー博士のことが書いてあります。 (拍手)

「日高にも空襲があった」  1942年生まれ 日高市原宿在住 男 

 私は1942年生まれです。終戦時は3歳です。ロシアの爆弾騒ぎでこどもをケアしなければいけないというのがありますね。それと似たように、記憶が3枚だけ写真のようにあります。広辞苑で調べました。こういうのはトラウマです。精神的外傷(PSD)です。どういう写真かというと、兵隊の写真です。私の家は農家でした。高麗川駅の近くの葬祭場の南方です。そばです。大きな家です。2階だてです。写真は兵隊で銃を持ってきました。もうひとつの写真は、怪我です。縁側があってがらすがありません。リヤカーに乗せられてた情景がうかびます。乗っている子供と母親がだっこしています。けが入院です。東飯能駅前のの君塚医院です。 医院は当時は木造です。病院の近くに川(堀)があった。入院中に巡視の人にやられる傷口の治療が痛いので逃げ出しました。真っ青な草が生えた土手があります。その場景が思い出せます。

 この話しは今年の5月に東大和市の戦跡を訪ねる交流会がありました際にすこし話したことですが、今日の催しに備えて正確に調べたいと思いました。日高町史と日高市史には空襲の話しは載っていません。日高市史に旧陸軍の213万平米高萩飛行場の記事があります。空襲の記事はありませんでした。飯能市立図書館にいきました。飯能市史に飯能町に空襲の記録がありました。3月15日、東京大空襲後7月28日稲荷町一丁目、国防婦人会の解散式に向かう途中、稲荷町、細田栄吉議員の奥さんが、機銃掃射で死亡。民間人の死亡第一号です。また軍需工場のデンゲン(注、現在のKK新電元の前身)に空襲がありました。7月30日デンゲン機銃掃射、鯉沼善吉さんが亡くなり、負傷者多数とありました。埼玉県平和資料館発行の本に記載があったのは熊谷空襲、爆弾投下が8月14日にありました。この投下で234人死者が出ました。3630戸焼失です。

 当時は高麗川村ですが村史は無い。空襲の記事はありませんでした。しかし私には傷があります。空襲の時に飛んできた弾が破裂して、これくらいありますがそれらの弾は子供のおもちゃになりました。今はありません。近くの大宮商会でガソリンスタンドですが、その隣の中島さん、天野さんのお母さんと天野順次さんがいましたが、天野さんのお父さんは軍人で南方に行って、生きて帰ってきました。天野さんのお母さんは教員で手記を書いています。題は「水車の音」です(コピーを配る)。その中で数行、日高の空襲が出てきます。しかし日付がでていない。わたしの記憶では両親は田んぼで草取りをやっていてお昼にあがってきて、昼食中に空襲警報が鳴るとすぐ空襲です。前回の東大和での交流会では死者が出たと言いましたが文書はありませんので不明です。手記の中で駅のほうでひどい機銃照射であったという記録です。自分史でありますが、よく調べたいと思っています。
 
 機銃掃射の被害防止ですが、ふとんの3枚もかぶれば跳ね返せると言う伝聞でした。ふとんを引きずり出してきてそれだけで防御でした。私の傷は右の大腿部です。当時3歳です。貫通したのですが、骨にはぶつかりません。今残っている傷は銃弾が抜けたものです。下は縫いましたました。上は12センチぐらいで炎症でやかれている。自然治癒を待った。このため上は盛り上がっています。 受傷後、飯能中央病院は満床でしたので君塚医院に行きました。この私の受傷のとき、今は亡くなりましたが一緒に入った人がいます。駅前の通りを右にいったところの、新堀製材所の従業員で川村さんです。当時は若いです、きれいな奥さんでした。その方は仕事中に空襲にあいました。当時ののこぎりは丸鋸で、木くずを落とすくぼみに隠れました。しかし両膝を打たれたのです。病室は同じだった。可愛がってもらいました。奥さんが麦ご飯に配給のグリーンピースを炊き込んだごはんを持ってきました。わけてくれたのですがおいしかった。今でもおいしいと記憶にあります。この日は天野さんの手記に有るように、八王子へ行く機関車、蒸気機関車をねらった機銃掃射で駅の人も何人か死にました。これからも調査をしたいとおもいます。(拍手)

「広島の思い出」 1928生まれ 日高市横手台在住 男 

 どれだけ話せるかわかりませんが・・・
私は1928年生まれです。小学校2年生のとき日中戦争(シナ事変)が始まりました。小学校5年3学期の時に両親と共に日本から中国に渡りました。学校に入るため1945年に両親のところを離れ日本に戻ってきました。

 1945年17歳、7月末まで広島市にいました、当時は学徒動員で学校には行かず軍の指定した工場で働いていました。学徒動員の配置換えで1945年8月に当時の富山県福野の呉羽紡績工場内にあった呉羽航空株式会社に行きました。軍都でしたが昼は空襲警報が無かった。夜間、空襲がありました。昼間はロッキード38が飛んできました。空襲です。ブーンと音がして機銃掃射です。びっくりして防空壕に入りました。体の震えが止まらない。 子供のときから軍国教育叩き込まれていたので大丈夫と豪語していました。2週間ぐらいで軍需工場は解散しました。 

 敗戦を迎えました。不安な気持ちが強かったです。引き上げ開始です。自分一人で帰郷しました。つらかったのは親兄弟を置いて出てきて一人になったことです。 広島爆心地に立って暗澹たる思いになりました。両親が死んだ人に拝みながら広島を後にしました。大声を上げて泣きました。18歳でした。よく生きられたと思いました。広島の原爆では友人が亡くなっています。 当時中国では蒋介石が日本人に対する攻撃をしていました。 不安が強かったのです。
 2週間後に引き上げがはじまりました。 その後両親が中国から引き上げてきました。その当時、私は進駐軍の人足をやっていました。 そのような苦労をしながら大学を卒業し70まで働いてきました。 私が今日まで生きていらるのは死んだ友達のおかげだと思っています。 以上です。(拍手) 

解説 お話に出ていた「学徒動員で呉羽紡績で航空機生産」について調べてみました。

 今から60余年前の太平洋戦争末期、日本はドイツ軍のロケット機Meの図面を潜水艦で持ちかえりました。この図面を元にロケット推進機「秋水」を試作しました。この飛行機を戦闘に使用できるようにするには乗組員を養成する必要があります。このため操縦性、安定性研究と乗員訓練のため、軽滑空機、重滑空機の両種が製作されました。軽滑空機は空技廠で試作され、昭和19年12月に完成、MXY8「秋草」と命名されました。機体は木製で「秋水」と同じ全幅、全長を、翼面積を持ち、12月26日に初飛行、秋水の練習機として使えると判定され、更に2機が製作されました。「秋草」は部隊訓練用として日本各地の小規模メーカーにより生産が開始されます。主なだったことろでは、前田航研(九州)、横井航空(京都)、松田航空(奈良)、呉羽航空(富山)、大日本滑空(仙台)などですが、終戦までに完成したのは1機でした。尚、「秋草」という名称は、陸海軍とも実施部隊ではほとんど使われなかったようです。MTZWさんが勤労動員で行った工場とはこの中の呉羽航空(富山)だったと思われます。

 MTZWさんのお話にあった学徒動員ですが、戦争のため大勢の男達が兵隊に行ったため工員が不足しました。その穴埋めのため中学生が工場で働いたのです。「呉羽紡績」は航空機の生産を請け負っていましたが、その頃の模様を伝える三菱重工の元社員のエピソードをインターネットで見つけました。

「・・・(昭和19年)僕らが大門に行ってあの呉羽紡績工場で仕事を始めたのたが、紡績工場で航空機を作るというので、色々の点で随分工夫もし苦労もした。特に組立をする工場では航空機を真直ぐに並べるたけが能じゃない、工夫して斜めに並べろといって並べ直さしたりした。そうしたら最後の総組立の処では、天井が低いから足の出し入れが出来ないといい出した。そこで、ちょっと来いといって足が出し入れ出来る丈の穴を掘らせて仕事をやらせた。そういう工夫 をこらしたものだ。
  又あの時は格納庫として海軍の千歳にあるのを大門に二棟持って来て、組立工場にするということで随分苦労もした。雪は一晩に三尺くらいも積った。それを軍隊まで連れて来て、雪かきや紡績機械の搬出をやらせ、そこに砂利を持って来たりして基礎を作った。仮組みを大急ぎでね。  そうしたら敵機が来たんだな、ブーンといって……。(中略)・・・敗戦後はアルミを使って弁当箱や鍋を作り帰途に向かう中学生たちに持たせてやった・・・」 MTZWさんがアルミの鍋か弁当箱を貰ったかどうかは聞き漏らしましたが今度聞いてみようと思っています。

 呉羽紡績の誕生を遡ってみます。呉羽紡績の誕生した地方はもともと繊維産業の立地に恵まれていたようです。 富山県の砺波平野のほぼ中心に位置し、散村の中心集落の一つである出町(砺波市街地)は、1649年(慶安2)に町立てされ、杉木新町とも呼ばれた町です。この町から放射状に周辺の町に伸びる道路がつくられたのは明治20年代です。1897年(明治30)には高岡から戸出・出町・福野を経て山麓の城端に至る中越鉄道(現JR城端線)が開通し物資の輸送が鉄道に代わりましたが、それまでは、砺波地方の産米や城端・福光・井波の絹、福野の木綿、出町の麻などは、扇状地を流れる川が利用され、小矢部川、庄川を通じて移出されていました。

 福野から井波・青島に通ずる鉄道(加越線)は1915年(大正4)に開通しました。鉄道の開通は沿線の産業の近代化に大きな役割を果たしました。1930年(昭和5)庄川の小牧発電所が完成し、電気が送れるようになりました。このため井波町の呉羽紡績、福野町の富山紡績、出町に中越紡織など沿線の町の周辺に繊維工場立地が相次ぎました。その後、馬車やトラックの運行に備えて町を結ぶ主要道路の改修が徐々に進められましたが、散村内部の道路は殆ど未改修のままであり、1945年(昭和20)頃の散村地帯の道路交通の状態はかなり悪かったと記録されています。農家に通ずる宅道はせいぜい3尺(約1m)ほどで、荷車の通れる道は限られ、人馬がようやく通れるような道も多かったと伝えられています。村と村を結ぶ道も6尺(約1.8m)程の曲がりくねった道であったそうです。

「呉羽」という言葉は、呉羽紡績発祥の地名であるとともに、わが国の紡織の歴史とも深いつながりをもつ言葉です。日本の紡織技術は中国からもたらされましたが、実際にその技術を伝えてくれたのが、むかしの中国の「呉」の国から渡来し、日本に帰化して大和朝廷に仕えた織女たちであり、呉織(くれはとり)、穴織(あやはとり)と称されました。呉羽紡績は戦後、東洋紡績に吸収合併されています。

 

この回参考資料

ひだか平和新聞 35号ほか

www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2003feb/tokushu/index1.html

www1.toptower.ne.jp/~katumata/sub571.html

 

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