日高と天皇

第4回 陸軍飛行場開設余話 

宮本百合子の作品に「昔の火事」というのがある(「改造」1940(昭和15)年4月号)この中に次のようなくだりがある。「碌三も猛之介も、近頃新市街に編入されたばかりのこの土地では生えぬきで、若衆仲間からのつき合いであった。土地もちの連中があつまって、村から町になったとき、土地整理組合のようなものをつくった。新市街に編入されたというのも、近年こっち方面へ著しく工業が発展して来たからで、麦畑のあっちこっちに高い煙突が建った。大東京の都市計画で、この方面一帯が何年か後には一大工業中心地になるという話がある。土地整理組合というのもこの見とおしに立って、土地もちが会社やそのほか土地を買おうとするのに不当な懸引をされないよう、その反面には地主の間に利益の均等を守ろうというわけでつくられたのであった。
 碌三も祖先代々の麦畑をもって、猛之介も祖父さま譲りの土地をもって、組合が出来るときから入っている。猛之介の土地は、つい近頃一町歩まとめて或る会社に売れた。事変以来地価はあがるばかりだが、特にこの半年ほどは、秤の片っ方へ何がどっさりと載ったのか、価はピンピンとつりあがって、組合での地価も、初めの頃から見れば三倍ほどにはあがった。その価で一町歩売ったのが猛之介である。」 

日支事変(日中戦争)以降、土地の価格が上がっている様子が窺い知れる。当時、軍部は飛行場建設のため農地や山林を買収したし、また資本家は軍需景気に沸いて工場をどんどん建てた。このため、そのような可能性のある地域の土地価格は高騰したのであった。しかしこの時代は小作農を抱えた大地主が大量の土地を所有していたから、農家の2・3男が土地を持とうとすれば勢い、開拓に頼らなければならなかった。
日高図書館に「開拓50周年記念誌、風雪に耐えて 日高町高麗川新宿地区」という記念誌が保存されている。総ページ数70のこの記念誌まえがきには「・・・。昭和9年を中心に20数名の方々が、遠く北海道より青雲の志を抱き、この地に理想郷を築き上げるべく営々辛苦を重ね、開拓に励み立派な農業用地として、又第二の故郷としてこの地に根をおろし、・・・・」と記しているように、日高市の大部分は開拓者たちの手によって切り開かれて来たことが窺い知れる。高萩飛行場の所在地であるが、昭和12年に開拓地を陸軍が接収してできたことをは既に述べた。ではその開拓地区はどのようなものであったか。話は脱線するが、この新宿地区の沿革についてすこし勉強してみたい。

この記念誌に昭和10年開墾入植図、が附属している。また昭和11〜20年新宿区全図と昭和21〜30年新宿区全図の、つごう3枚の地図が附属している。1枚目の図には昭和16年軍用地拡張線と書かれた点線が引かれており、2枚目の図にはその線より東側が「軍用高萩飛行場」と記され真っ白になている。しかし一枚目にはきれいな升目が続き、おそらくそこに入植していた方のお名前であろう川口金次ほか8名の方のお名前が記されている。点線は2枚目、3枚目の図では一本の道路になっている。
現在の旭が丘という地名は国道407号線に沿った西側の地区で高麗川駅の東側、というのが私の理解である。昭和3年ごろに埼玉県耕地課の指導で土地整理組合がこの地域一体に発足し、その整理組合の構成員の一つ、町屋長久保という地域が昭和9年に高萩村ほか二か村耕地整理組合と改称、3か村にまたがる山林約800町歩の大開墾事業が発足したと記されている。昭和9年に北海道旭川周辺から約30戸をが集団移住し、高麗川村分の山林約150町歩の開拓を開始した。この800町歩の中に第1期180町歩、第二期70町歩が陸軍に買収されたのである。(前出、風雪に耐えて、年表より)後に高萩飛行場へと変貌させられている。年表と共に座談会も収録されているが、その中で高萩飛行場と昭和天皇行幸に触れたくだりがあるのでご紹介する。小見出しは原文のまま、発言者のご氏名はイニシアルとした。

強制的な家の移転 
編集部「飛行場ができたのは、強制的なんですか」、
U「軍の力が強く、命令的で無条件ですね」、
F「飛行場ができた時は、閉口しました。家を70mかみに持っていけと言われた。渡辺さん(だいぶ年配の人なんだけど)に頼みました。補償を貰わないと、3回程行きました。可愛そうだからと言って、返事をしてくれました」

天皇陛下の行幸 
編集部「天皇陛下の行幸の時、皆さんはどうなさいましたか」、
I「昭和13〜14年ごろだと思うが、盛装して、旗を持って送りました。内野さんのおじいさんは、紋付き着て、汽車が通り過ぎる迄、頭は上げず見なかったね」、
U「うちの親父なんか、根が有難がる方だから、はるかかなに行ってしまうまで、頭は上げないから・・・・。高麗川駅まで、お召し列車で来られた」、
I「15年7月に川越線(当時)が開通して、高萩までお召し列車が行くようになった」、
U「白線が引いてあって、機関士は、何日も前から練習をしたらしいんです。畑や田んぼに、こやしなんか車が通って見えるところに置いてはいけないとか、見回る人が、口うるさく言った。陛下が見える道路は、枝道でも、ちゃんと舗装されていた。ほんとに言いわけ程度だけど」

このような歴史の証言をされる方はもう日高市内にもわずかである。昭和12年(1937年)より65年が経過しているのだから、当時、20歳の方は85歳である。そのようなお年の方が日高に何人いらっしゃるのか? 日高市のホームページ、大字年齢別人口(平成11年)によれば高萩地区は96名、旭丘地区はわずか4名である。歴史の証言として当時の様子を残せないものであろうか。蛇足ながら読売新聞縮刷版のCD−ROM版をご紹介する(「昭和の読売新聞 戦前2」CD-ROM、1937年 (昭和12年1月1日) から1945年 (昭和20年12月31日) までの紙面をデータベース化したもの。価格 600,000円 (税別))
(続く)

この稿参考図書(前回と重複分は省略)

  開拓50周年記念誌−風雪に耐えて 日高町高麗川新宿地区編 日高図書館蔵
 「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社 日高・飯能民主文庫蔵

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